「ケアの倫理からはじめる正義論 支えあう平等」を読んだ

「ケアの倫理からはじめる正義論 支えあう平等」
エヴァ・フェダー・キテイ 岡野八代 牟田和恵 (白澤社 2011)


2010年のキテイの「愛の労働 あるいは依存とケアの正義論」の出版と
同年11月の来日の後に出版されたもので、

来日時の京都同志社大学での講演録と
監訳者2人によるキテイへのインタビュー、監訳者それぞれの解説と
他3人の「愛の労働」読後感を収録した、いわば「愛の労働」の副読本。





「愛の労働」は大部の本である上に、背景の哲学議論について知らない私には
本筋は理解したつもりでも、なんとなく「分かったつもりだけど……」という
曖昧さが残っていたのですが、

この副読本を読んで、あれこれ、すっきりした気分なので、
私自身のメモとして、以下に。

 キテイが平等をめぐる「依存批判」と呼んだものは、したがって、じつは、正義に対する依存批判でもある。いま、フェミニズムに突きつけられている問題は、〈等しくない者は、等しくなく扱え〉と考える正義論そのものを見直すことなのである。もっといえば、能力において等しくない者、端的に言えば、男性哲学者が社会的には無能だと考えてきた者と、そうした者に付き添い、気を配り、そこに自分の能力を傾けている者、だからこそ、その人もまた、社会的には無能だとみなされてしまう者たちの視点から、社会を構想することなのだ。
(p.32 岡野)


キテイさんの京都講演は
私はシアトルこども病院成長抑制WGのことについて確認したいことがあって
あわよくば直接に質問できないかと出掛けていったので、下心でギンギンに緊張して
内容を聴くどころの精神状態ではなかったため、今回この本で講演内容を改めて読むと、
上の2つのエントリーで書いた「透明な自己」と「ドゥーリア」の理解で
間違ってはいなかったんだな、と安心した。

そして、「ドゥーリア」の原理とは、
やっぱり介護者支援の理念だなぁ、とも。

その他に、監訳者によるインタビューで面白かった点は、

コミュニタリアニズムと、依存とケアの問題を追及するフェミニストの違いとして、
前者が伝統的なコミュニティや保守的な家族観を前提とするのに対して、
後者はそうした社会が女性やマイノリティに抑圧的であることを批判し
家族の形にはこだわらないこと。

対談の中でキテイが
「ケアの脱ジェンダー化は、一朝一夕にできるようなことではないでしょう。」
それまでの間、ケアワークをする女性を支えなければなりません」と言っている個所は
「今この時」に過大な介護負担を担っている人の
「今ここ」にある痛みのことを言っている、
という点で、とても共感する。

最後の章で、監訳者の牟田和恵さんがとても刺激的な提言をしている。

人は産まれてから死ぬまでの間に
およそ人生の4分の1はケアを受けて過ごすのだと考えれば、

 人間にとって依存が必然であり、したがって、ケアを行なう者の存在も人としての必然ならば、人間とは、ケアを受け、その能力がある限り自らもケアを返していく存在であるのではないだろうか。……(略)……自身の子や親ではなくとも、血縁に依存者がいないとしても、自身がケアを受ける人生の四分の一を返報できるくらいに、ケアの営みにかかわっていく、それこそが「自立」した尊厳ある人間の姿ではないのか。
 そして社会は、誰もが人生の四分の一――単純に一般的な労働時間で考えれば、それは週五日働くうちの少なくとも一日、一日八時間働くうちの少なくとも二時間にあたるが、もちろん、ケアの責任の果たし方は多様であっていい――は、何らかの形でケアを担うことを前提として、法や制度が組み立てられるべきではないのか。……
(p.161)


ここまで大きな視点ではないけれど、もう少し小さな視点で私が考えたのは
「大人なら誰でも基本的な家事・育児・介護ができる社会」というコスト削減策(2009/5/25)

そして牟田さんは最後に
「家族」という神話を批判することの必要性を解く。

「家族の愛」が何かの正当化に使われる時には要注意だというのも、
「親の愛」が「科学とテクノの簡単解決文化」マーケット創出のターゲットとされていることも
当ブログの大きなテーマの一つ。

また、家族神話や母性神話が、以下のような文脈で
再生産・強化されていくような不気味な空気も気にかかっている――。