Joseph Maraachli 君、死去

以下のエントリーで追いかけてきたカナダの“無益な治療”訴訟の
Joseph君が、27日に自宅で両親と叔母に看取られて亡くなったとのこと。



一家を支援してきたプロ・ライフ活動家の Frank Pavone 神父は
「Josephと両親は神から与えられた特別なミッションを完了しました。
絶望によって弱者を切り捨てる”死の文化”の中で、
希望によって弱者を受け入れケアする”生の文化”を失わなかったのです」

またO’Donnell修道士は
「私はこの6、7か月というもの
Josephが自宅で愛され、ケアされているのを見てきました。
それがJosephにとってどれほどの意味を持ったのかは誰にもわかりませんが
息子の生ある限り我が子を愛することができた両親にとって
それが大きな意味があったことを私は確信しています」

シャイボ財団も、Joseph君一家を支援していたとのことで、
シャイボ財団からは

「我が子がこの世を去る時は、医師でも民事法廷でもなく、神様に決めてもらう。
一家が望んだのは、それだけです」



私がちょっと気になるのは、
Joseph君の最後の頃と思われる写真で、
彼の全身がむくんでいること。

それから、記事にあるビデオを見ると、
セント・ルイスに運ばれる段階で、Joseph君は
既にむくみ始めているように見えること。

もしかしたら、彼はこの段階から
栄養や水分を身体が受け付けない状態になっていた……ということ?

私はこれまで、一応Josephくん本人は苦しんでいないという前提で考えてきた一方で、
上記リンクの記事でも書いているように、彼がプロ・ライフのプロパガンダの広告塔として
大人たちに利用されている可能性についても気になってはいた。

もちろん、この事件については詳細を知らない限り何とも言えないのだけれど、

一口に“無益な治療”事件といっても、
家族のエゴで、本人に苦しみを強いている可能性のあるケースも
そこには含まれているのだろうな、とは思う。

ただ、だからといって、
それが即座にPeter Singerがいう「Joseph君のような命に拘泥して
無駄なコストをかけるより、それを途上国の子どものワクチンに振り向けるべき」といった
“患者の無益”論を前提にした乱暴なコスト論を正当化するわけでもない、とも思う。

本当に考えなければならないことは、
個別の事実関係の丁寧で細やかな検討や繊細な判断という形で、
その両者の間に無数にあるはずなのでは?

それはちょうど、
「延命はぜんぶ止める」か「何が何でもあらゆる手を尽くす」かの二者択一
終末期医療を巡る議論が描かれていくことのおかしさにも通じるような気がする。