Peter Singer が Maraachli事件で「同じゼニ出すなら、途上国の多数を救え」

当ブログが継続して追いかけてきた
カナダのMaraachli事件(詳細は末尾に関連エントリーをリンク)について
Peter SingerがNY Dialy Newsに寄稿し、

Josephを米国に転院させたプロライフの団体は彼を広告塔にしてしまって
彼の医療費をねん出するための募金を呼び掛けているが、

どうせ回復の見込みのない重症児の命を長引かせるためだけにそんな多額の金を使うくらいなら、
同じ金額を途上国の子どもたちにワクチンや医療機器を届ける活動に回せば
健康に幸せな人生を50年は生きられる子どもたちを沢山救うことができる、

Shiavo事件と同じことがここでも繰り返されているが、
ジョセフやテリー・シャイボのような命に拘泥するか
同じカネで多くの名もなき子どもたちを救うかは我々の選択である、と。

最後の部分を抜き出すと、

Here's the irony. According to the most rigorous charity evaluation agency in the country, GiveWell.org, you can save a child's life for about $1,000. All you have to do is give the money to their top-rated charity, Village Reach, which delivers vaccines and other urgently needed medical supplies to rural areas in developing countries.

If Priests for Life were really serious about saving lives, instead of "rescuing" Joseph so he can live another few months lying in bed, unable to experience the normal joys of childhood, let alone become an adult, they could have used the money they have raised to save 150 lives - most of them children who would have gone on to live healthy, happy lives for 50 years or more.

We've seen such things happen before. In 2005 the anti-abortion movement put a huge effort, and large sums of money, into "saving" Terri Schiavo. In the end, after Congress had been recalled specifically to enable a federal court to hear the case, she was allowed to die. An autopsy showed her brain had been severely and irreversibly damaged.

We can obsess over Joseph and Terri - or we can make an honest effort to save the lives of countless children whose names we may never know. It is our choice.

この中のシャイボさんについて書かれた部分を読んで、
前からずっと漠然と疑問に思っていたことをまた考えた。

Shiavoさんが植物状態だったことは死後の脳の解剖からも明らかだというのは
Art Caplanも言っていたのだけど、

彼女が脱水死に至る2週間の過程で起こった、または進んだ脳委縮……ということは
果たしてゼッタイにあり得ないことなんだろうか???



Joseph君が、プロ・ライフの広告塔になってしまっているというのは
私も3月15日のエントリーで考えた。

ただ、ピーター・シンガーが引っ張り出してきている
「同じ15万ドルをかけるなら」という、いかにも功利主義な計算には、
計算の土台になった15万ドルという金額そのものに、
功利主義の数々の思考実験と同じような罠があるような気がする。

なぜなら、同じく15日のエントリーで指摘したように、
それほど多くの費用がかかることになったのは、もともと
Joseph君をわざわざカナダから米国の病院に移さなければならない事態が発生したためで、

病院が両親と柔軟な姿勢で話し合いをしていたり、
その希望をかなえて気管切開をした上で在宅療養に切り替えていたら
はるかに安上がりで、15万ドルもが必要となるはずもなかったのだから、

その15万ドルが募金によって集まるとしたら、
それはJoseph君の事件があって初めて集められる金額。

渡米して移植を受けたいという日本の子どものための募金で
例えば5千万円が集まったからと言って、その5千万円があったら
どれほどの途上国の子どもが救えるかと計算することに意味がないように、

Joseph君の事件の展開を踏まえて始められた募金で集まる金についても、
最初からそれだけの金額がどこかにプールされているかのように
「それだけの金額があったら」と前提することには意味がない、と思う。

共に、その特定の子どもがいなければ、できなかったカネなのだから。
そして、そこで集まった金額だけ、途上国の子どもたちへの支援が減るという話ではないのだから。

しかし、もちろんSingerがここで主張しているのは
本当はそういうことではない。

彼が言いたいのは
「医師らはJosephにはベッドから出ることも、
周囲と意味のあるやり取りをすることもできないと言っている」というような子どもの
命を長引かせるために使うカネは、金額を問わず、全て無駄だということだ。

もともと”無益な治療”停止の強行がなかったら無用だったカネの
その額の大きさを持ち出すことによって「無駄」観を強調してみせているだけで、
彼が説いている問題には実は金額は全く関係がない。

Peter Singerという学者はどうしていつも、
こういうセコイ詐術を使うのだろう。

もしも彼が、これをカネの問題として提示し、功利主義の好きな例のトロッコ問題のように
医療費の額と、その額で救える命の数を比較計算してみせる戦術をとるのであれば、
「一人の患者の延命年数」と「その金額で救える(他の患者の延命年数)×(人数)」とを
比較計算をすべきケースは、本当のところ、
高額な最先端医療にこそゴロゴロ転がっているのではないのか。

功利主義的な無益な治療論の計算にもまた
ない計算は見えなくされているというマヤカシが存在している――。

そして、そこに「ない計算」とは、
グローバル金融ひとでなし強欲資本主義で世界を回して行くための
科学とテクノの利権構造が関わる医療の周辺の計算ではないのか――。


【23日追記】
それにしても Singer までが「途上国」「ワクチン」「医療機器」とは、
あちこち符号することが生命倫理の界隈では増えてきました……。