Ashley父の法解釈とRyan論文

18日のエントリーを書くに当たって、
父親のブログの2007年1月時点でのプリントアウトをざっと読み返していたら、

前には何とも思わずに読み飛ばした部分に
「お? ……なるほどぉ……」という面白い箇所を見つけました。

倫理委から障害者の不妊手術に関して法律的な確認をするよう言われて、
弁護士に相談したところ、自発的な生殖は不可能なほど障害が重いのだから
その法律(WAの州法のこと)はAshleyのケースには当たらない、ということがわかった、と述べたのに続いて、

The law is intended to protect women with mild disability who might choose to become pregnant at some future point, and should have the right to do so.

法律の意図は、
将来妊娠することを選択する可能性があり、
それゆえ妊娠する(ことを選択する)権利を持つべき
軽度の障害のある女性を守ることにある。


裁判所の命令なしに障害者の強制的不妊手術を禁じる法律が
女性だけを対象にしているというのも初耳ですが、

障害の程度によってこの法律には除外の線引きがされていて、

それは、自らの意思で妊娠を選択する可能性のない重度障害のある女性には
妊娠を選択する“権利”がないからだ、という主張は、

なんと独創的なセオリーでしょうか。


特別倫理委員会のあとで相談を受けた弁護士が父親に書いた返事が
添付資料OとしてWPASの報告書に添付されているのですが、
その中で弁護士が書いているのは、

Ashley will never be able to care for a child or even to understand the connection between sexuality and pregnancy.

Ashleyが子どもを世話することが出来るようなることは決してないし、
セクシュアリティと妊娠の関係を理解することすらありえない。

弁護士は、Ashleyの権利の有無には触れていないし、
まして、問題の法律は軽度障害者だけを対象としたものだなどとは一言も書いていません。

父親の上記の法解釈は、
弁護士の回答を独自にさらに先へと進めたものといえるでしょう。

そして、この父親独自のセオリー、考えてみれば、
以下の2つのエントリーで紹介した Christine Ryan の論文のトンデモな論旨にそっくり──。



「どうせ障害が重くて自分から望んで子どもを産むことなどできないんだから、
 生殖権なんて、Ashleyにはないに決まっているじゃないか。

 そんなら、障害者の強制的不妊手術を禁じた法律だって、
 Ashleyのような重症児は対象外に決まっているだろーが」

というAshley父の言い分に、
誰か法律分野の人が、無理やりにそれらしい合理化をでっちあげたとしたら、
それは、おそらく、Ryanの論文のような論旨のものになるでしょう。

そういえば、Ryan論文は、たしか以下のように結論していましたっけ。

“Ashley療法”が向上させるQOL
基本的な人権や尊厳や身体の統合性よりも重要なのだと
親が明白で説得力のある議論を出した場合には
裁判所はこの論文で提言する新基準を採用して
Ashley療法を認めてもよいだろう、と。

Ashley療法が向上させる重症児のQOL
基本的な人権や尊厳や身体の統合性よりも、はるかに重要だという
明白で説得力のある議論は、ほら、私のあのブログに、ちゃんとあるじゃないか、と指差す
Ashley父の癇走った声が聞こえてきそうです。

そういえば、
Diekema医師らを始め病院サイドはAshley療法という名称は使わず、
最初から議論の焦点を成長抑制だけに絞ろうとしていることを思えば、

(たぶん彼らは、それ以外の部分の倫理議論での正当化は無理だと
06年の論文時点から分かっている)

去年の段階になって、ひょっこりと
“Ashley療法”という名称を一貫して使用する論文が出てくるというのも大変興味深い現象。

やはり、この事件で正当化に忙しい当事者側には、
意思決定の流れが子ども病院以外にも別途存在していると考えた方が
より良く事態の推移を読み解けるのでは?