Ouellette「生命倫理と障害」第5章 Valerie裁判

第5章の導入部分については、こちらのエントリーに既報 ↓
Ouellette「生命倫理と障害」第5章: 「アリソン・ラッパーの像」(2012/1/17)

Oulletteが「生命倫理と障害」の第5章(生殖年齢)で取り上げているケースは
1985年カリフォルニア州のValerieの裁判。

過去の優生思想による強制不妊の歴史への反省から
それまで障害者への強制不妊が全面的に禁止されてきた方針は、却って、
憲法の第14条修正などで保障されたプライバシーと自由の権利を侵害するとして、

条件により容認へと変わる転換点となった裁判。

Valerieは当時29歳。ダウン症でIQは30。
母親と母親の再婚相手と幼時から一緒に暮らしており、
両親はなるべく本人に自由で広い社会生活を送らせたいと願っているが
性的な関心が強いValerieが場所や相手を構わず男性に性的行為を仕掛けていくので
両親の目の届くところから外へ出しにくく、

ピルは身体に合わなかったし、
その他の方法を試そうにも本人が受診を嫌がるので、
医師から卵管結紮を勧められた、

それにより、家の外で自由に行動させてやることができ
本人のQOL向上に資する、として、両親が許可を求めたもの。


Valerie本人を代理する弁護士が任命され、
その弁護士が問題にしたのは「もっと侵襲度の低い方法で」という点と、
もう1つが「そもそもカリフォルニア州の裁判所に不妊手術を認める権限があるのか」。

前述のように、「自己決定能力を欠いた発達障害者への」不妊手術を
当時のカリフォルニア州法は全面的に禁止していたため、
カリフォルニア州の裁判所には認める権限がないこととなり、

そこでValerieの両親は
「重症障害者の不妊手術を禁じる州法は違憲」として同州最高裁に上訴。

Valerieには、可能な限り豊かで実りある人生を送る自身の利益を守るべく
子どもを産む・産まない、産まない場合の避妊方法についての決断を
両親に代理決定してもらう憲法上の権利があるかどうか、が焦点となった。

憲法が結婚と生殖の自由・権利を認めている以上、
障害のある女性にも障害のない女性と同じく
望まない妊娠をせずに満足のいく充実した人生を送る権利があり、
州法によって不妊手術が全面禁止されるならば
自分の状態に応じた唯一の安全な避妊方法を奪われる人が生じる、として、

最高裁は、全面禁止は憲法違反と判断した。

3人の裁判官が反対意見を述べたが、その理由としては以下の2点。

・Valerieの両親の不妊手術の理由こそ、かつての強制不妊の背景にあった価値観だった。
・全面禁止によってこそ自己決定できない人の利益の保護は可能。

ただし、Valerieの両親の要望は
より侵襲度の低い方法では目的が達成できないとのエビデンスが十分ではないこと、
Valerieが実際に妊娠する可能性のエビデンスが十分ではないこと、
などの理由で却下された。

      ・・・

全面禁止ではなく個別判断で、との方針転換そのものは
生命倫理学からも障害者運動からも、共に支持された、とウ―レットは言う。

両者に意見の相違があったのは、
本人以外の誰がどのような状況下で決定することができるのか、という点だけれど、

厳しいセーフガードを必要とする姿勢は
障害者アドボケイトだけでなく生命倫理学者の間でも共通している、として、
生命倫理学者Diekema、Cantor、障害学の学者 Fields、3人の議論を引用している。

Deikemaの論文についてはこちらに ↓
知的障害者不妊手術に関するD医師の公式見解(2008/8/21)

Diekemaはお馴染みAshley事件の担当医だったわけなのだけど、
A事件の正当化とは全く矛盾する彼の慎重論を知らん顔で引っ張ってくるあたり、
ウ―レットもなかなかやるんである。

Cantorの議論は、
望まない治療を拒否する権利と同じ、以下の3つの利益基準を適用し、

① 自己決定という利益
② 幸福における利益(治療決定の影響を全体的に捉える)
③ 身体の統合性を維持する利益(無用な身体の侵襲を受けない自由)

代理決定者がこの3つを十分に考慮するなら
不妊手術を選択肢にすることで障害者の尊厳の侵害が回避される、と説き、

本人利益のみを代理する法的代理人を置くことと、
独立した病院内倫理委で検討することを条件としている。

Martha Fieldは裁判所の判断を必須としつつ、
さらに「裁判官にも偏見や欠陥がある」と述べて
裁判所の審理にも厳格な基準を設けるべきだと主張。

オーストラリアのAngela事件を思うと、これは重要な指摘だと思う)

特に、本人の最善の利益判断においては
家族や社会の利益ではなく、本人だけの利益に限定する必要を強調している。


この後ウ―レットが書いていることが、私には非常に気にかかる。

Ashleyのケースがトップニュースになるまでは、生命倫理学者らもFieldsやその他の障害の専門家と同じく、不妊手術の最善の利益検討では介護者の利益ではなく本人の利益だけを問題とするとの意見だったように思えた。アシュリー事件でのパラダイム・シフトは、今のところ、まだ強制不妊のケースでの生命倫理分析に影響してはいない。


そのAshley事件でのシフトを起こしたのは、Diekema自身――。

彼がA事件以降、強制不妊の問題だけでなく障害児・者の切り捨てに向けて
それまでの慎重姿勢からスタンスを大きくシフトさせていることを考えると、

ウ―レットがここで書いている「まだ」という一言は、決して小さくはない。