憲法が保障する“基本的権利”をパーソン論で否定する“Ashley療法”論文(後半)

前のエントリーの続きです)


このように、この論文は冒頭で、
personの定義次第だとして、重度知的障害者基本的人権を崩してしまうのですから、

この後でプライバシー権、生殖権、親が子どもを育てる権利を次々に論じたり
これまで当ブログでもまとめてきたサイケヴィッチ判決ストランク判決など、
様々な判例を引き合いに出して長大な論文に仕立て上げているのは
みんな、議論をそれらしく見せるための単なるゴタクに等しい。

それらゴタクとコケオドシを剥ぎ取って裸にすれば、要するに

重度知的障害児・者は non-person であり、我々とは違うのだから、
我々には極端な選択肢も彼らにとっては妥当な選択肢であり得る。
親の理由によっては諸々の条件を勘案して不妊手術を許可してもかまわない

(Our everyday life experiences may not be sufficient in cases involving people who are different from ourselves. P.315)

この論文、これだけのことを強引に言い続けて、ここまでで既に35ページなのですが、
実は、この35ページは、ただの序章。

論文の主眼は、最後の5ページ、最終章にあるらしくて、
そこでは”Ashley療法”に限定した議論が行われます。

そこで主張されているのは、

現在の法的ドクトリンのままでは、
親が“Ashley療法”に関して最善の利益の証明責任を果たすことは不可能で、
子どもを保護する責務を負った裁判所が“Ashley療法”を認めることはありえない。

For a court to legally approve of the application of the “Ashley Treatment” there needs to be a flexible, yet constitutional model in place that does not create confusing legal precedent.

すなわち、裁判所が“Ashley療法”を認めるためには
柔軟で、なおかつ憲法にのっとった新しい基準が必要なのである。

This Note argues that courts should not automatically reject a request to administer the “Ashley Treatment” without performing an intensive factual inquiry into whether the “Ashley Treatment” presents a legally permissible treatment option that is in the best interests of the child.

裁判所は親からのAshley療法の要望を自動的に却下するのではなく、
Ashley療法が子どもの最善の利益にかなう療法として法的に認められる治療かどうかを
個別の事例の事実に基づいて検証すべきである。

これまでの章で検証してきたように、
重症児は我々一般とは別の世界に住んでいるのだから、

Dresserの「改定最善の利益」分析ツールやElizabeth Scottの「自律モデル」を採用すれば、
憲法で保障された人権を尊重しつつ、その子どもが住んでいる世界を十分に理解し、
(the small subjective world in which the incompetent person lives)

家族全体の利益その他を多面的に考慮した上で
我々の場合には極端な選択となることが彼らには理にかなっていると判断することは可能なはずである。

(この正当化の論理、どこか”救済者兄弟”の正当化論に通じますね。
 家族全体の利益は、その子どもの利益でもある、という……)

そこで、結論。

If the parents have presented sufficient clear and convincing evidence before a court showing that administering the “Ashley Treatment” is more important to the child than her fundamental interest in procreation and bodily integrity, then the request is extreme, but nonetheless reasonable, and courts should carefully examine whether the procedure is permissible in the particular case.

基本的な生殖における利益や身体の統合性よりもAshley療法の方がその子どもにとって重要だと
親が明白で説得力のある議論をすれば、たとえ極端なことだとしても
裁判所は認めたっていいじゃないか……と。

どうやら、この論文が延々40ページを費やして言いたかったのは

”Ashley療法”が向上させる子どものQOL
基本的な人権や尊厳や身体の統合性よりも重要なのだ。

今のままの基準でAshley療法に裁判所がGOを出せないなら、
新しい基準を採用して、Ashley療法を法的に認めろ。


……ということは、
これを書いた人も、もしかしたら、いるかもしれない“書かせた人”も
Ashley療法が法的に認められるものではないと、承知しているわけですね。

(もしかしたら、すでに裁判所が却下した事例があるのかも……?)

「それなら”Ashley療法”はやっていはいけなかったんですね……」と
すっこむのが理にかなった判断というものだろうに、

この論文は不思議なことに、
「それなら、裁判所が”Ashley療法”を認めるには、何が必要なのか?」という発想をする。

そして、裁判所にAshley療法を認めさせるための新基準を打ち出すべく、
まずはパーソン論を持ち出して、重症の知的障害者には
憲法や国連障害者権利条約で保障された基本的人権まで否定してかかる……。

(国連障害者人権条約は、障害当事者サイドからの”A療法批判”で、よく言及されていましたしね)


この論文の論理展開の決定的な転回点は
「重症の知的障害のある人は一般の人間とは別の世界の住人である」という線引きで、
Diekema医師の“Ashley療法”正当化ロジックと奇妙なほどの重なりを見せています。

また、重症児が住んでいるのも重症児に必要なのも家族との「小さな世界」……というのも
2007年の論争でDiekema医師が繰り返していた主張でもあります。

(そういえば、この論文、イントロダクションでいきなり、
2007年1月のLarry King Live での同医師の当該発言を長々と引用しています)

Ashley事件の背後にうごめいている意図と力とは、いったい、どういうものなのか……?

ちなみに、Dresserの1994年の論文がこちら