「尊厳」を巡る疑問

18日のTimesのKatie関連記事の中で、どうも、ひっかかること。

この中には、母親Alisonが娘の子宮摘出を望むのは、pain, discomfort and indignity of menstruationからKatieを守ってやるため、と書かれています。

Alisonが言っていたのは、「良く知らない他人に生理の手当てをしてもらうことには尊厳がない」ということだと思っていたのですが、一体いつから生理そのものがindignityになったのか? 

【追記】その後、ニュース記事を読み返していたら、Alison自身が10月7日の記事で「生理のindignityなどなくても、今でもKatieには尊厳のない暮らしなのに」と語っていました。ただ、生理の何が尊厳を損なうと言っているのか、その意味するところはよく分かりません。

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そして、もう1つ。尊厳を巡る論理が矛盾していること。

Ashleyのケースが論争になった時、「子宮摘出は彼女の尊厳を犯している」との批判に、両親や担当医ら、FostやHugesら擁護に出てきた人たちが返したのは、

しかし、アシュリーには尊厳が何かということすら分からない
アシュリーは尊厳のある扱いをされているかどうかを感じることすらできない

つまり、「重い知的障害のある人には自分の置かれている状況に関して尊厳の有無を感じる能力がないのだから、子宮摘出が尊厳を損なおうがどうだろうが問題にならない」とのリーズニングだったのです。

子宮摘出どころか何でもアリに持ち込めそうな乱暴な屁理屈ですが、もしもAlisonが娘の子宮を摘出しても構わないと考える根拠がこれと同じなのであれば、摘出を望む理由として「Katieの尊厳が生理によって損なわれるから」と同時に主張することは、論理が矛盾しているのでは?


Alisonに言わせれば、Katieの知的障害は「母親さえ認識できていない」し、「自分でできるのは息をすることだけ」というほど重篤なのであり、それならば論理的な帰結としては「生理の手当てを誰にしてもらおうと娘には違いは分からない」という認識になるはずなのですが。)



「尊厳」という言葉の定義には、さまざま議論の余地があるのかもしれません。けれど、親であれ、医師であれ、メディアであれ、トランスヒューマニストであれ、誰であれ、自分たちの都合だけで簡単に裏返すような、そんな軽々しさで操っていい言葉でないことだけは知っておきたい──と思う。