「平穏死」提言への疑問 3

前のエントリーからの続きです)


④医師の横暴や、患者や家族の自己決定を阻害して顧みない態度への批判

この医師の、「君は責任をとれるのか」のひとことが、今の病院の大多数の医師の姿勢を象徴しているといえるでしょう。
 患者さんにとってどうしてあげるのがいいか、ではなく、自分が責任を問われないようにするために、自分の保身のために、処置をしているのです。
 しかし、看護師も介護士も家族も、医師の言葉には逆らえません。…(中略)…とても患者のことを考えていると思えない、横暴としか言いようのない言い方をしても、相手が医師であるがゆえに、みんな逆らえないのです。
(I, p. 25)

……その人と一緒に人生を生きてきた人たちと平等な立場で話し合い、協働作業をすることこそが、今、求められているのではないでしょうか。
 欠けているのは、この意味での医師のコミュニケーション能力です。
(I, p. 27)

……方法があるからと、医者がその人に押し付けてよいはずはないのです。ましてやその人に長年寄り沿っている人に「おまえが責任をとれるのか」と迫る権利などないのです。
(I, p. 94)

 医者が家族に胃ろうを勧める時に、二言目に出てくるのが「助ける方法があるのにそれを行わないことは、保護責任者遺棄致死罪に問われる」ということです。
(I, p.138)


しかし、石飛氏が自分で指摘するこうした医師のあり方のおかしさを正す責は
なぜか医師には求められず、看護師に求められていく。

……しかし、医師が指示するから、なんでも看護師はそれに従わなければならないのではないのです。その適応が間違っていると思う場合は意見を述べ、間違いを正すことは当然の義務であります。それこそ真の助けでしょう。
ましてや一人の人間として発言する資格は同等であるはずです。…(中略)…
 医師である私が言うのもおかしいのですが、いえ、逆に医師だからこそ私が言わなければならないのかもしれません。「おかしいことはおかしい」と言うべきです。
(I, p. 28)


個々の看護師が「おかしいことはおかしい」と目の前の医師に向かって言うことより
自分がこれほど批判した以上、石飛医師自身が医師らに向かって
「あなたたちはおかしい。あなたたちが変わるべきだ」あるいは
「医師である私たち自身が変わらなければならない」と言うことの方が
はるかに易しいことであるはずだと、私には思えるのだけれど。

でも、この人たちの本には、どこか
「医師らがそうなるのには、やむを得ない面がある」
「そうなってしまうのは、医師らのせいではない」と言いたげなトーンがある。

 特養の配置医には、往診料がつかないのです。深夜わざわざ起きてまで特養に行く奇特な医師は少ない。
(I, p. 29)

……複雑な医療制度の中では「口から食べたい」という患者さんの希望やQOL(生活の質)は、どうしても二の次になりがちです。
 ですから、一概に病院医療者を責めるのは、ちょっと筋違いかもしれません。
(N, p.85)

(在宅での看取りが不安になって、やっぱり病院に戻すと家族が決めた、という下りで)医療者は常に受け身です。
(N, p.75)


また、いずれの本でも、医師が率直な判断をできなくなった原因を、
家族の求めに応じて延命治療を中止した医師が逮捕された(という認識で語られる)事件に求めている。

(例えば
射水の場合は本人の意思不明の事例が多く
川崎に至っては、人工呼吸器中止後に患者が苦悶したため
筋弛緩薬を用いて呼吸を停止させたのです。
脳機能をみる脳波検査すら行われていません」と
ヘブンズドアホスピタル・ブログに書かれているように
これらの事件では治療中止の正当性が危ぶまれているにも拘らず)

医師らがこうなってしまったのは、
そのように患者のために勇気ある決断をした医師を不当に責める世の中のせい、とでも言いたげに。

そうして、
上記の個所で、患者の最善の利益にかなう選択をする責任が
医師から看護師へと転嫁されたのと同じように、

平穏死できない現実を作っている責任が
医療や医師や病院ではなく、患者サイドへと転化されていく。

私は(8割の人が平穏死を望んでいても、8割の人が平穏死できない)その最大の理由は、皆さんが「平穏死できない現実を知らない」からだと思います。
(N, p. 98)

「平穏死」を妨げているのはこうした「終末期医療の現実への無関心」のように感じます。医療者も患者も市民も、死や終末期医療に正面から向き合わずにここまで来ました。病気や老衰の終末期に緊急入院をするかどうか、食べられなくなった時にどうするか、特にこの2点について、元気な時から家族と一緒によく話し合っておくことが大切です。
(N, p. 100)

でも、この直前には著者自身が
しかし本人の想いだけでは、なかなか平穏死できないのが日本の医療の現実です(N. p. 98)
と書いているのだから、元気な時から家族と一緒によく話し合っておいたとしても
その「日本の医療の現実」が変わらない限り、患者と家族の思いだけでは
平穏死など出来ないことになるはずなのだから、

「死や終末期医療に正面から向き合」う必要があるのは、誰よりもまず、
著者自身が「医療者も患者も市民も」「向き合わずに」来たと書いて
真っ先に上げている「医療者」のはず。

それなら、
なぜ、この人たちは
その「日本の医療の現実」を変えようと言わないのだろう?

 いくら平穏死を強く望んでも、簡単にはかなわない時代に我々は生きている――それが、医者になって28年になる私の偽らざる実感です。なぜそうなってしまうのか? 患者さんは何を準備すればいいのか?
(N, p.5)

これほど医師や医療や医療制度のあり方に問題があると指摘し続けているのだから、
長尾氏の「なぜそうなってしまうのか?」の答えは
「医療のあり方に問題があるから」であることは明らか。

それなのに、なぜ次の問いは医師や医療の方に
「こうしたあり方を変えるためには何をすればいいのか?」と向けられず、
なぜ「患者さんは何を準備すればいいのか?」と
即座に患者さんの方に転じられてしまうのか――?

そこに釈然としないものが、どうしても、ある。

どちらの本も、
さりげなく一定の状態について「生きるに値しない」との価値意識を盛り込み、
患者本人の利益を説く一方で医療経済にもちゃんと触れて、
日本は遅れているから海外に追いつかなければ、と煽ってもいるだけに――。

それらの点については、いずれ、また別エントリーにて。