長尾和宏医師「平穏死」のダブル・スタンダード 1


「平穏死」という言葉を使う時、私は老衰や認知症の終末期、あるいは末期がんや臓器不全症による旅立ちをイメージします。「自然死」は文字通り、自然な経過の先にある死でしょうか。一方で「尊厳死」という言葉は、交通事故などで意識が戻らなくなった昏睡状態(遷延性意識障害といいます)における延命中止も含む、もう少し広いイメージで使われます。その根底には、人間としての「尊厳」を保ちながら死を迎えたいという願いが込められています。微妙にニュアンスが違いますし、言葉の問題なので、人によって少しずつ捉え方が異なることもありますが、平穏死、自然死、尊厳死は、ほぼ同義語と考えていただいていいかと思います。
一方、「安楽死」は、不治かつ末期の患者さんの希望で「人為的に死期を早める処置」です。ですから尊厳死安楽死は、全く別物です。
 不治かつ末期状態に陥り、食べられなくなっても人工的な栄養補給をせずに、自然な死を迎えるのが、平穏死、自然死、尊厳死。患者さんに「苦しい、早く死なせてほしい」と頼まれ、呼吸を止める注射をするのが安楽死。……
(p. 30, 31)


この後、長尾氏は、
そこのところを区別できないまま「尊厳死」に反対している人がいる、と批判するのだけれど、

引用前段の「遷延性意識障害」の患者さんは
後段で定義されている「尊厳死」の「不治かつ末期状態」には当たらないのだから、

この個所を読んだだけでも
きちんと区別がついていないのは長尾氏の方では……? 

前段には
「意識が戻らなくなった状態」には「人間としての『尊厳』は保」てない
という暗黙の「価値判断」が、「願い」という言葉によってさりげなく肯定され、
忍び込まされて、「不治かつ末期」という定義の逸脱がわかりにくくされているけれど、

この問題は、ずっと
日本尊厳死協会の「尊厳死」の定義について指摘されてきたもの。
2008年段階でも同年「現代思想」2月号で小松美彦氏が明確に指摘している。


一方、長尾氏自身、昨年
いつが「終末期」かは分からないと明言してもいる。

この本でも、臓器不全症について以下のように書いている。

……臓器不全症は、適切な医療を施せば、寿命の延長がかなり期待できます。うまく治療すれば「最長不倒記録」も狙える一方で、どこで終末期の線引きをするかが非常に難しい病態ともいえます。現実には「不治かつ末期」との判定が難しい場合が多い。
(p. 45)

また、
神経難病の場合の胃ろうや人工呼吸器については

……全身状態が良好なら病気の終末期ではありませんから、延命治療という呼び名も本来は適当ではないと思います。……
(p. 53)

わずか2ページ後にも、
神経難病患者や頚椎損傷の患者さんにとっての人工呼吸について
全く同じ表現が繰り返されている。

さらに、p. 144 でも、胃ろうそのものの是非が問題ではないと主張しつつ
全く同じことが強調されている。

「全身状態が良好なら終末期ではない」と
たいして厚くもない本の中で、著者は3度も繰り返し、まさに口を酸っぱくして強調しているのだ。

そういう長尾氏の「延命治療」の定義とは、

 延命治療とは、不治かつ末期となった患者さんに対して行う医療処置です。
(p. 49)

したがって、長尾氏の定義によれば、
不治かつ末期でない患者さんに行う経管栄養や人工呼吸は「延命治療」ではない。

それなのに、
脳不全症の患者であり、全身状態が良好であるなら終末期ではない
遷延性意識障害の患者を「尊厳死」の対象とすることが
「尊厳を保ちながら死を迎えたい」という「願い」として
ごく当たり前のように許容されてしまうのは、

実はそこに「不治かつ末期」以外の
もう一つ別のスタンダードが隠されたまま、
「不治かつ末期」と同時に適用されているからでは――?

この「もう一つのスタンダード」は実は
この本のあちこちに、さりげなく姿を現してもいる。

例えば、

救急搬送から胃ろう造設、老人病院へ移った患者さんについて
「お見舞いに行くと、もはや植物状態ともいえる様相でした」(p. 23)

著者がこうした「ハッピーな胃ろう」に対して「アンハッピーな胃ろう」と呼ぶのは
「いわゆる植物状態での胃ろう」(p. 154)

認知症末期で自己決定ができない、いわゆる植物状態に近い患者さん」(p. 166)

「もはや植物状態ともいえる様相」??????
「いわゆる植物状態に近い」????

つまり、この本の中では、
植物状態」ではない様相のことが
このように「植物状態と混同してもよい」状態であるかのように
著者により繰り返し、言いなされ、形容されているのである。

まるで「高齢である」とか「認知症である」とか「自己決定できない」ことが
科学的な厳密さなしに云々しても許されるアリバイであるかのように――。

次のエントリーに続きます)