「障害のある乳幼児と母親たち その変容のプロセス」から「なぜ障害のある子どもの親は『親でしかない』のか」へ 2

前のエントリーからの続きです。


その「あとがき」にあった結論とは、

一つは、
早期療育の家族支援の中心は「自己のポジショニング」中心に、という点。

もう一つは、以下の3行で、
私にとっては、この本で最重要なのはここだった。

子どもの発達支援という目的をいったん脇に置き、安全な構造で、障害のある子どもを持つ親が、子どもとの関係に限定せずに自分自身の内面を語ることのできる機能が、すべての療育システムに組み込まれることが必要です。
(p.208)

これ、本当によく書いてくださった……と思う。

「子どもの発達支援という目的をいったん脇に置き」
「子どもとの関係に限定せずに」「安全な構造で」というのは、

障害のある子どもを持つ母親であっても、
「障害のある子どもの母親でしかない存在」としてではなく
「私」として「私」のことを語っても、それを否定されないで、ということですね。

そして、まさに、このことを
障害のある子どもを持つ母親はずっと許されてこなかった、と私は思っているし、

それこそが、私が10年以上前に書いた2冊の手記で訴えたかったことであり、
今で言えば、それこそが私の介護者支援のメッセージの一つ。

いわゆる「専門家」と「世間サマ」に向けて、
「障害児の親でしかない」のではなく「障害児の親でもある私」なのだと
拙いなりに自分にできる表現で語ろうとしてきたような気がする。

だから、もうそろそろ「一人の人間である私」について語らせてください、と。

だから、私たち母親も、
もうそろそろ「こんなにしんどいけど、こんなに可愛い」と
世間サマに求められる順番でものを言うのをやめて、

勇気を出して、
「こんなに可愛いけど、こんなにしんどい」という順番で
自分の痛みを語り始めてみようよ、と。

それから10年経って、介護者支援と出会った時、
やっと日本でも「介護者でもある私」について語ることを許される場が
少しずつできてきたのだなぁ……と感慨があった。

でも、その頃、私は期せずして、何の予備知識も心構えもないままに、
障害学や障害者運動の周辺の人や情報に、急加速的に接近してもいて、

そして気づいたのは、
それまで私が言いたいことのある相手として意識してきた「専門家」でも「世間サマ」でもなく、
思いがけない別のところでも、親が「私」について語ろうとすることは
今なお非常に難しい、ということだった。

4月にツイッターをやめたきっかけとなったのも、
その新たな発見と、それを発見したことの衝撃と痛みだったんじゃないか、と
今は整理し始めている。(少なくとも私の主観的には)

そこで「敵でしかない」かのように言われている親だからこそ、
「親は加害者」「親はこういうもの」という抽象的な存在ではなく
それぞれに固有の人生を生きてきて今ここにこういう生を生きている「親でもある私」、
「介護者としての私」のことを語らないでいられない思いが切迫してきて、

だから時に勇気を振り絞って、
それを少しずつおずおずと書いてみようとするのだけれど、

「重症重複障害のある子を持つ親」の文脈で発言したことは
自立生活を切り開いてきた「身障者である本人」の文脈に引き戻されて受け止められる。

でも私は「身障者」や「自立」や「障害者運動」の話をしていたわけじゃない、
私は「重症障害」の文脈で「親である私」の話をしていたのに、と思う。

または、「そこには本人がいない」と返される。

でも私は「私」の話をしているのであって本人の話をしているわけじゃないのだから、
そこに本人がいないのは当たり前のことなのに、と思う。

逆に、なぜ親は自分のこと(だけ)を語ってはいけないの? と思う。

そして「介護者支援」を語ろうとすると
「でも介護者は加害者じゃないか」と返される。

かつて世間サマの勝手な美意識や母性信仰によって悲鳴を上げる声を封じられたのと同じように
今度は、加害者じゃないか、子どもの自立を邪魔してきたじゃないかと言って
「親や介護者は自分のことを語るな」と言われているような気分になった。


著者は1999年の発達援助と家族支援の対応カリキュラムについて
以下の批判をしている。

…子どもの障害への知識、対応方法が中心であり、母親のひとりの人間としての揺らぎや情緒的サポートという視点に注目しないのは不十分である。
(p.161)

また著者は165ページで中川(2003:5)からの引用として書いている

母親の感覚は専門職から療育最優先の圧力を認知し、これらに対して拘束観や負担感を感じている


なぜ、子どもに障害があるというだけで親は
周囲が(専門家が、世間が、支援者が)「こうあるべき」と押し付けてくる規範の中で生きることを
求められてしまうのだろう。

子どもが小さい頃には専門家が認める「優秀な療育者」であり、
その後もずっと世間が認める「愛と自己犠牲で献身する美しい介護者」であり、
子どもが長じてからは「子どもの自立のために尽力する正しい支援者」であれと、

なぜ、子どもに障害があるというだけで、誰かの物差しを勝手に当てられ、
一方的な評価の眼差しを向けられなければならないのだろう。

障害児の親であろうとなかろうと、
私たちは誰だってみんな、固有の環境に生まれ、固有の人生をこれまで生きてきて
それをみんな引きずって「今ここ」に、固有の歴史や事情やいきさつに絡みつかれ生きている。

だから、個々の人間にとっては、
「今ここ」からしか、どこへも足を踏み出せるはずもないのに、

どうして、そこに外から
誰かがてんでに信じる「こうあるべき」カタチの物差しを当てられて、

別の誰かには行けたのだから誰でも「そこ」へ行けるはずだし行くべきだと言わんばかりに、
評価され断罪されなければならないのだろう。

そういう人たちにとって、
なぜ、障害のある子どもを持つ人は「親」でしかないのだろう。

なぜ、障害のある子どもを持つ女は
「子どものために生きる母」以外であることを認められないのだろう。

なぜ母親は、子どものことを抜きに、
一人の人である「私」のこと(だけ)を語ることを許されないのだろう。

そんな、ミュウが生まれて以来ずっと抱えてきた問いが、
気づかない内に、また私の中で急速に膨らんでいたのだと思う。

その問いをその問いのままに受け取ってくれる人がいないことが私にはずっともどかしくて、
抱え続ける問いがだんだんと膨らんでいたのだと思う。

そして、ある時ささいな出来事を機に、パンパンの風船が破裂してしまった。

それがたぶん、あの自爆テロみたいな
「ツイッターをやめました」だったんじゃないだろうか。

(あの時たまたま私のそばを通りかかられたために爆風を浴びてしまった方々に、改めてお詫びします)

だから、私はあのエントリーを、
正しさの暴力で黙らされた昔の体験場面で書き始めたかったんだ、という気がする。

この本を読んで、
あぁ、なるほど、怒鳴りつけられた、あの時の体験のように
私は、この問題を巡って何度も「拒否」を受け「傷つき」を経験し
私の中にはこの本の著者が言う「傷つきの累積」があったのだなぁ……と改めて気付いた。

それだけでも、この本を読んだ甲斐があったと思うくらいに、
私には目からウロコの発見だった。


そうして気づいて、改めて思うから、
やっぱり私は書いてしまうのだけど、

ミュウが生まれた時からずっと、
「障害児の親になったら、なんで『障害児の親』でしかないの?」
「母親だって一人の人間……で、なんでいけないの?」
という問いをずっと抱えてきた私からみると、

申し訳ないけど、
この著者が母親に向ける目線にも、私はちょっと不満です。

次のエントリーに続きます。