「障害のある乳幼児と母親たち その変容のプロセス」から「なぜ障害のある子どもの親は『親でしかない』のか」へ 3

前のエントリーからの続きです。

著者はずっと母親の「主観的な経験」を重要視していながら
参考文献を見ると、この人、学者が「(母)親について」書いたものばかり読んでいる。

なんだか、
障害や病気についての知識は身につけているけど、
障害や病気そのものを生きている患者の体験にはまったく興味がなくて、
彼らから直接学ぼうとはしない医療職を思ってしまう。

この本の参考文献の中で、
親自身が書いたものは(たぶん)「ダウン症の子をもって」だけ。

確かに名著だけど、ついでに言えば有名な大学教授の書いた本でもあるけど、
でも、これって「父親」が書いたものなんですけど?

著者にとって最大の興味の中心であり、最重要事って
「母親」の「全体の人間としての」「主観的な体験」だったはずなのに……?

それから、以下のようなくだりが「あとがき」にあるのだけれど、

……女性として生まれてきて、恋愛をし、結婚をして……。テーブルには、レースのクロスをかけて、子どもの1歳のお誕生日にはケーキを焼いて、ハッピーバースデイソングを歌いながら一緒にろうそくを吹き消す笑顔と周囲からの拍手。七五三での晴れ着、家族でのハワイへの海外旅行など。
(p.207)


もしこれが、著者が想像する「障害児の母親」の内面なのだとしたら、
まずもって著者自身が母親を一人の「全体としての人間」としてではなく
ステレオタイプ「母」「女性」限定の枠内でしか見ていないんでは?


この本の中に引用されている障害児の親の研究で
書籍になっているものは私も何冊か読んでいる。

誰であれ、こういう研究をしてくれる研究者の方には、
いつも、まず素直に「ありがとう」と思う。

こうもボロカスに書いていたら信じがたいことかもしれないけど、
でも、それは本当に素直に、そう思うのです。

ああ、こうして、分かろう、理解しようとしてくれている人たちがいるんだ、と
いつも、本当に嬉しい。心から、ありがとう、と思う。

ただ、正直、この本に限らず、
読んでいると、いつも、どこかから気持ちがねじくれてくる部分がある。

いつのまにか「あなたに何が分かるというの?」と呟きたくなっている。

それは、たぶん、こういう研究に関する本を読むたびに経験する、
研究の対象や素材としてまなざされることへの違和感。

著者自身があとがきの最後に書いている。

……研究においても、実践レベルにおいても、支援の対象という視点が強まることによって失われるものに目を向ける必要があります。
(p.209)


これは重要な指摘だと思う。

だからこそ、著者自身が障害のある子どもの母親を
研究の対象や素材としてまなざしていることの限界に気づいてもらえたらなぁ、と思う。

気づいてもらえれば、
「一人の全体としての人」として分析するはずの「対象」を、
まず著者自身が「障害児の母親」と限定的にしか捉えていないことにも、
気づいてもらえそうな気がするのだけどなぁ。

例えば、
姑と「分かち合い」ができずに「傷つき」、「逃避パターンの母親」だと分類された人の、
暮らしの場に行って、そこで嫁として女として語られる言葉を聞いてみる気はないですか。

子どものために仕事をやめたらと言われて傷つき悩んでいるという人が
子どものこととはまったく別に職業人として存在している時間や空間で、その人と会い、
その仕事で何をしてきたのか、仕事にどういう思いを持っているのか、
それを聞いてみる気はないですか。

その人が親になる前に、何をしてどういう人生を生きてきたか、
親になる前のその人が、どういう人だったのかに、興味はないですか。

親としての傷つきや夢ではなく、
その人がその人自身の人生で負った傷や心に大切に描いてきた夢に、興味はないですか。

支援の対象や分析の対象として向かい合った「障害児の母親」の言葉ではなく、
同じ時代と社会を生きる人間同士として向かい合ったその人から、
そういうふうにこぼれ出る言葉を浴びて、初めて、
「全体としての人」としての障害児の母親について
何がしかのことが語れるんじゃないかと、

私は思うのだけれど。