「障害のある乳幼児と母親たち その変容のプロセス」から「なぜ障害のある子どもの母親は『親でしかない』のか」へ 1
これまでの障害受容論、家族支援論、社会学における障害児・者家族研究を振り返り、
社会学における障害児・者の家族研究に共通する問題意識は、障害児の母親に対して「望ましい姿」や「役割規範」を押し付ける社会の持つ言説と、それを内面化せざるを得ない状況におかれた母親の葛藤である。
(P.24)
(P.24)
……家族の問題は家族で解決すべきという近代家族の言説のロジック……(中略)……を懐疑せず、個人の努力で克服すべき問題として無自覚に帰してきた「障害受容論」等への社会学研究の立場からの批判を十分に自覚したい。
(p.25)
(p.25)
と、先行研究を評価しつつ、
障害の種別や子どもの年齢段階による親子関係のあり方の違いが整理しきれていない、
母親と周囲の関係性の中で変容が捉えられていない、つまり
母親と周囲の関係性の中で変容が捉えられていない、つまり
……親の経験を主観的、総合的にとらえた実証的研究はなされていない。
(p.188)
との批判から、(p.188)
乳幼児期の障害のある子どもを持つ母親に限定し、子どもの障害別にグループ化して
母親を「全体としての人間」という視点で捉えつつ、
母親を「全体としての人間」という視点で捉えつつ、
……早期の段階の母親の経験とは、≪自己のポジショニング≫の揺らぎをめぐる物語……(p.174)
面白かったのは、
それらの語りをいくつかのキーワードで分析して
4パターンに分類されている変容の物語と、
それらの語りをいくつかのキーワードで分析して
4パターンに分類されている変容の物語と、
Ⅰ「再生」パターン
Ⅱ「逃避」パターン
Ⅲ「獲得」パターン
Ⅳ「境界」パターン
Ⅱ「逃避」パターン
Ⅲ「獲得」パターン
Ⅳ「境界」パターン
それらを分析するために使われているキーワードとカテゴリー。
実際の障害像とは関わりなく、
母親が子どもの障害を「治らない障害のある子ども」と捉えている(障害モデル)か、
それとも「そのうち治る病気の子ども」と捉えているか(病気モデル)によって、
前者のモデルだとⅠまたはⅡのパターンになり、
後者のモデルだとⅢまたはⅣのパターンになる、とか、
母親が子どもの障害を「治らない障害のある子ども」と捉えている(障害モデル)か、
それとも「そのうち治る病気の子ども」と捉えているか(病気モデル)によって、
前者のモデルだとⅠまたはⅡのパターンになり、
後者のモデルだとⅢまたはⅣのパターンになる、とか、
それぞれのモデルでどちらになるかの大きな要因として、
思いを表現した時に「重要な他者」がそれを受け入れ「受容」してもらえるか
それを「拒否」され「傷つき」となったり、
それが「累積」されたり「関係の断絶」に至るかだ、とか。
思いを表現した時に「重要な他者」がそれを受け入れ「受容」してもらえるか
それを「拒否」され「傷つき」となったり、
それが「累積」されたり「関係の断絶」に至るかだ、とか。
分析とか解説が興味深い。
(すべてに頷けるわけではないけど)
(すべてに頷けるわけではないけど)
あと個人的に目を引かれた個所として、
発達段階の重度~軽度といった客観的な子どもの状態だけが変容プロセスに直接関係するのではなく、母親がわが子と分かりあえる実感が持てているかどうかという主観に関連する病の特性が、強く影響していることが明らかとなった。
(p.138)
(p.138)
……重要な他者からの【拒否】は、何よりにもまして、障害のある乳幼児を持つ母親にとって大きなダメージとなることが明らかになった。
(p.140)
(p.140)
この本は、著者の博士論文がほぼそのまま本になったとか。そのためか、
すごく興味深いことに、結論がズバッと分かりやすく書かれているのは、
本文中ではなく「あとがき」だった。
すごく興味深いことに、結論がズバッと分かりやすく書かれているのは、
本文中ではなく「あとがき」だった。
次のエントリーに続く。