上野千鶴子「ケアの社会学」から考えたこと 2

② 上野先生は高齢者の「家族介護者」だけをイメージして話を進めていきながら、
障害者運動の当事者主権の考え方から学べと説いているように思え、
ここでもまた、障害児・者の家族介護者、つまり主として親(特に母親)は
置き去りにされているんじゃなかろうか。

この本の著者が見ているのは
育児と、高齢者介護と、自立した障害者だけなのでは……という気がする。

「育児ロボットを考えつく人はいないけど介護ロボットは考えつく人がいる」と
何度か繰り返されていたり(育児ロボットはあります。こちらのエントリーの後半に)
「動物の世界に育児行動はあっても、高齢者介護はない」(P.105)など、

上野先生もまた、障害児・者の母親によるケアを
どちらかと言えば介護よりも育児寄りにイメージしている……?

そのためなのか、
子どもが何歳までが「育児」で、何歳から「介護」なのか、
または障害児の親によるケアは、どの部分が育児で、どの部分が介護なのか、と
私たち重症児の親が考え続けてきた問いは、ここには見あたらないし、

高齢者の「家族介護」以上に「ジェンダーまみれ」になっているはずの
障害児・者の家族介護者、例えば以下の記事で取り上げられているような母親たちは、
この本の中の、どこにも、いない……という気がした。



やっぱり「ケアの社会学」って、
“名誉男”として生きてくることのできたフェミニストの学者さんが
自らの高齢期を前に、もっぱら「介護される人」の側に自己同視して
団塊の世代が要介護者となる時代にあるべき介護保険の形を考えている本……?

もともとフェミニズムに怨念を抱える私が何より気に入らなかったのは、
介護は出来れば引き受けたくない負担だと書いたのは最首悟だけだ、と書かれていること。
父親だから書けても、母親には言えなくされていることがあるんじゃないだろうか。

岐阜の調査の記事に出てくるような母親は、
言えなくされている自分に気付くことすらできなくされているんじゃないのだろうか。

私の母親仲間の一人は「口が裂けても言えない」と言った。
「自分が寝たきりにでもならない限り許してもらえない」と言った人もいる。

私たち障害のある子どもを持つ母親は、
一体だれに”許して”もらわなければならないというの?

その”だれか”をこそ、
フェミニズムは糾弾してきたのではなかったの?

私たち母親は、ここでもまた置き去りにされている――。

そして、
今なお得られない”だれか”の”許し”に縛られた母親の”愛”に絡めとられてしまっている
重症心身障害のある私たちの子どもたちも「当事者主権」から置き去りにされている――。

             ――――――

私自身は、
障害・障害者に関わる問題を云々する時の「当事者」は
あくまでも障害のある本人だけだと考えているし、

つい「当事者」としての意識でモノを言いそうになる自分は
自分は親でしかないことを何度でも繰り返し自覚しなければならないとも思っている。

障害のある子どもの親は、
特に赤ん坊の頃から障害のある子どもとして育ててきた親は、
子育ての最初から何年もの長い間、「当事者」として専門家に対応することを迫られ、
世間に対しても、我が子を背中にかばい自分が向かっていく姿勢になることが多く、
どうしても「当事者」としての意識を持って生きざるを得ないだけに、
そうか、自分は「当事者」ではないのだ……と自ら気付くことは難しい。

それだけに、ある段階から後は、それに何らかの形で気付かせてもらい、
自覚しておく意識的な努力をすることが必要なのだと思う。

だから、障害や障害者の問題については「当事者」は本人だけだし
親は「当事者」ではなく、あくまでも「障害のある子どもを持つ親」として
何事かを語ろうとする際には、その違いを意識しておかなければならないと思うのだけれど、

こと、ケアの問題については
ケアされる人もケアする人も両方が等しく「当事者」ではないのか、と思う。

両者の間に力の不均衡と、利益の相克・支配―被支配の関係の危うさを孕みつつも、
両者はともに等しく、ケアの「当事者」ではないのだろうか。






これもまた、知識不足から全然理解できていないと思うけど、この本でも
著者が子育てと高齢者介護だけを念頭に論を展開しているように思えることが不満だった ↓