上野千鶴子「ケアの社会学」から考えたこと 1

まず、前置きとして、
某日某所で聞いた介護者支援関連のシンポジウムで印象的だった場面を3つ。

① 何年か前には介護者支援の必要を訴えると
「要介護の本人が一番の弱者なんだから、介護する方がそんなことを言うべきではない」
と批判され聞いてもらえないのが常だったが、ようやく日本でも
介護者支援の必要が認識されてきた、という発言があった。

これは現在でも、
障害のある子をもつ親である私が介護者支援とか介護者の権利について語ると、
そういう反応を受けることはあるもんなぁ……と思いつつ聞いた。
「まず本人、介護者はその後」「親のくせに」などの感覚は、たぶん今だに根強い。

② あるパネリストが「“介護する権利”と同様に
“介護しない権利”も認められなければ」と発言したところ
即座に隣のパネリストが「そんなことを言ったら家族の愛はどうなる?」と反論する、
という場面があった。どちらも女性。

これって「夫婦別姓を認めろ」「そんなことをしたら家族が崩壊する」と
同じなんじゃないのかなぁ……と思いながら聞いた。

パネリストの女性では「介護しない権利」支持派が4人 vs 反対派が2人だった。

③ その後、男性介護者の問題に議論が移った際に、
男性は女性とは本来的に違っているので男性介護者に特化した支援が必要と考える人と
違うのは育てられ方や働き方によって社会的に作られてきたのだから
働き方を見直して男女同じ育て方をしようと主張する人とに
くっきりと分かれた。その分かれ方はちょうど上の4対2の逆転になっていたのも、
「2」の方々がそこで急にパワフルに発言し始めたのも、
2人とも「男女が違うことは科学的に証明されている」と主張するのも
なかなか興味深かった。

ちなみに、この問題について私の考えはこちら ↓
「大人なら誰でも基本的な家事・育児・介護ができる社会」というコスト削減策(2009/5/25)


――そういう体験をした直後に読み始めたので、

上野千鶴子先生の「ケアの社会学-当事者主権の福祉社会へ」の冒頭、6ページ目にして
ケアの人権アプローチを採用するとして以下の4つの権利が挙げられているのを見た時には
あー、なるほど「強制されない権利」ね、と納得すると同時に、
「ほらー、やっぱりー、これを見てみろ―」という気分だった。

(1) ケアする権利
(2) ケアされる権利
(3) ケアすることを強制されない権利
(4) (不適切な)ケアされることを強制されない権利


その後の本文によると、これは誰かしら外国の学者さんが提唱した3つに
上野先生が4を追加し、修正版に改良したものだとか。

とはいえ、私はこんな本を読みこなせるほどの教養はないので
正直なところ、ほとんどの部分ちゃんと理解できたとは思わないし、

後半はほとんどつまみ読みだったし、
鷹巣町の“その後”と、外山義ユニットケア研究批判は面白かった)

加えて私にはミュウの幼児期からの
フェミニズムは障害児の母親を置き去りにしてきたじゃないか」という
根深い怨念があるから、最初からナナメに読んでいるのかもしれない。

なので、ここでは一つだけ、
介護する者の立場で考えてきた、介護する者とされる者の関係についてのみ
読みながら、ずっと漠然と引きずっていた疑問のいくつかを、
これから私自身が考えるための整理・メモとして、書いてみる。

① 上野先生は、ケアされる側のニーズを一次的ニーズ、
ケアする側のニーズを二次的・派生的ニーズとし、それに基づいて
ケアされる側を一義的なニーズの帰属先、
従って「当事者」とはケアされる者のこと、とする。

その理由としては、
ケアされる側のニーズはケア関係から離れてもなくならないが、
ケアする側のニーズは、ケア関係に留まることによって初めて生じる二次的ニーズ。

ケアする側とケアされる側には圧倒的な力の不均衡があり、
ケアする側のニーズはケア関係から退出すればなくなる性格のものであるのに対して
ケアされる側は命にかかわるのでケア関係から退出することはできないという
不平等が存在する。

一応、上野先生は、家族介護が事実上の強制労働となっている場合には
家族は例外として「当事者」としての正当化ができないわけではないと書きつつ、
しかしそれであっても一次ニーズと二次ニーズとは区別すべきだ、と説く。

その根拠は
現状では本人と家族の利益の相反の中で家族の利益やニーズの方が優先されているから
「家族は愛の名において、障害当事者の自立生活に立ちはだかった」から。
家族は「おまえのために」を装いつつ自分自身の利害をニーズとして優先してきたから。

ここで上野先生は
家族介護者を例外的に「当事者」に一旦は含めつつ、
両者の間の不平等、家族介護では介護する者のニーズが優先されてきたことを理由に、
介護される者のニーズの方が優先だと説いて、
再び家族介護者を「当事者」から締め出しているように、私には見える。

一次的ニーズと二次的・派生的ニーズの違いを区別することは理解できるし、
介護する者と介護される者との間には利益の相克と支配・被支配の関係リスクがあることは
Ashley事件から当ブログでずっと考えてきたことそのものだから了解している。

私に分からないのは、上野先生が
それら2つを両者のニーズの「優先順位」の問題に横滑りさせているように思えること。

ニーズの生じ方・性格が違うこと、両者の利益や権利に相克があることは
常に意識されているべきだと私も思うし、
介護する側のニーズが優先されてきた問題も重大だと思うけれど、
だからといって、それは、そのまま「だから介護される人のニーズが
介護する人のニーズよりも優先」と直線的に言えることではないと思う。

介護される人と介護する人のニーズは「優先順位」や「後先」で考えるようなものではなく、
あくまでも個々のケースごとに固有の状況の中で
両者ともに合わせ考えられるべきものなんじゃないのだろうか。

長年、寝たきりの我が子をずっと在宅でケアしてきて、
介護負担を含む諸々の事情からウツ病になった親や、
ヘルニアになって日常生活にも不自由している親が
病院受診さえままならず介護を続けているとしたら、
その親のニーズはどこまでが二次的ニーズで、どこからが一次的ニーズなんだろう?

うつ病になった時点で、
その人にはうつ病患者としての一次的ニーズが発生していると思うのだけど、
介護負担が発症に関わっていたら、その人のうつ病患者としてのニーズは二次的なものでしかないのか。

逆に、障害のある親の子どもはヤング・ケアラーになる可能性があり、
親への支援と同時にヤング・ケアラーとして子への支援も必要だという問題が
日本ではあまり意識されていないことが私はちょっと気になっているのだけれど、
「ヤング・ケアラーとしての子への支援」の必要を認識し、それを訴えることは
「障害のある親への子育て支援」の必要を否定することになるのだろうか。
それらを共に必要なものとして説くことはできないのだろうか。

私としては、それらは「まずこちらが満たされて後に、次にこっちね」とか
「こちらの方が重要性が上で、その次にこっち」といった優先順位の問題ではなく、

両者のニーズの性格の違いや、両者の間にある力の不均衡や
これまで介護する者のニーズが優先されがちだったことは十分に意識しつつ、
あくまでも個々のケースごとに固有の状況や事情の中で、
両者のニーズ共にすべてが同時に平らに並べられ、
共に十分に考慮されて問題解決の方策が探られるべきもの、では、と思うのだけど……。