「子どもがひとりで遊べない」世界から、人が「能力」と「機能」の集合体でしかない未来へ?

昨日のエントリーに著者の谷口さんからいただいたコメントに刺激されて、
昨日アップしてから後に考えたことを書きたくなり、
どうにもコメントに収まらないほど長くなったので、
シリーズの2としてエントリーに――。


谷口さんが「子どもを一人にしたら育児放棄に問われる」社会に感じる違和感と

私が障害児医療の体験を通じて感じてきた違和感、
またこのブログから覗き見る「科学とテクノの簡単解決」文化と、
それが向かっていく“メディカル・コントロール”の世界に感じる懸念とに

共通しているのは何なのだろう……と考えてみて、
今の段階で思いついたのは以下の3つ。

まだそれほど考えを煮詰めたわけではないですが。

「安全と健康」は他の何よりも優先する価値――。

「医療」と「子育て」の関係をめぐって、
前からずっと疑問に思っていることの一つは
「小児科医は『子どもの病気』の専門家であって『育児』の専門家ではないのに、
なぜ小児科師が育児講演会の講師となって、健康管理についてはともかく
育児のハウツーまで指導するんだろう。小児科医って『育児』の専門家なの?」。

それはそのまま
「子育ては健康管理よりもはるかに広く深いはずなのに」という疑問なのだけれど、

前のエントリーの最後に追記した児童精神科医の方のコメントを改めて読み返してみたら、
「親よりも育児ロボットの方がいい」は、やはり
子どもの「安全と健康管理」の文脈で言われている。

そういえば10数年前に、療育園の子ども達から機械的な思考で「生活」が奪われた時にも、
そのスローガンは「安全と健康のため」だった。

そこで行われたのは、無言の食事介助と無言の着替え、
「どうせ分からないんだからベッドに入れっぱなしで構わない」
「(ベッドに入れっぱなしたら)職員は業務がはかどるようになり喜んでいます」
「風邪をひくといけないから外出は不許可」
「定期採血あるから学校からの外出は不許可」。

これは高谷氏が「重い障害を生きるということ」
「健康管理」の名目で生活を制限し、その結果「健康増進」が妨げられるということがおこっている。
と書かれている通りで、

あの頃の療育園では「子ども達の安全と健康のために」
医療による「管理」ばかりが強化されていき、
子ども達からは「生活」と笑顔が消えていったのだった。

そうして子どもたちはモノ扱いされる暮らしの中で
胃潰瘍になったり、部分ハゲができたりした。

ハゲができれば「皮膚科へ」と当時の師長はいったそうな。

(療育園の名誉のために追記しておくと、
ちょっとした騒動の末、生活重視の深い理念のある師長に変わり
当時の園長もセンター上層部もに改善の努力をしてくださいました。
一保護者の訴えを受け止め、そこまで生かしてくれる施設は他にはないのでは、と
私はそういう療育園を保護者として誇らしく思っています。
これについては「所長室の灰皿」に)


親を「安全と健康管理」の「機能」として捉え、
その「機能」を絶対視して評価する目線

くだんの児童精神科医さんの
「オムツ交換と安全管理はロボットがいい」発言の前後を読んでいると、そこには、
「育児」の中でも特に「安全と健康」管理の単なる「機能」として親を捉え、
その「安全と健康」管理の「機能」によって親を上から目線で評価してかかる意識が
感じられるような気がする。

これもまた、私が娘の幼児期に専門家のご指導に感じた違和感に通じていく。

それまでいっぱし“一人の社会人”として生きてきたはずなのに、
障害のある子どもの親になった途端に、
私は一人の人間として尊重してもらえない身分を与えられた、かのように感じた。

障害のある子どもの親になった途端に、いきなり周囲から勝手に
“無知で無能なお母さん”ポジションに一方的に置かれて、
上から目線で評価とご指導とお説教の対象にされ、
娘の療育と介護の「機能」や「役割」そのものとして扱われるようになった、と感じた。

娘に関しても私は、
「ウチの子は“ウチの障害児”じゃない。“ウチのミュウ”なんです。
障害そのものが服を着てここに座っているわけじゃない。
この子の異常をどうするかという視点と同時に、
この子がまず“一人の子ども”として育てられなければならないことを
忘れないでほしい。身体だけじゃない、心はどうなる?」と反発を感じ、
(それは上記の事件の際に職員研修でお話ししました)

その後の年月の間には
「親である私はこの子の療育や介護の機能でしかないのか、
私は一人の人としては認められず、それまでの人生の継続を生きることは許されないのか」
という疑問を抱えてきた。

それは現在「介護者の権利」「介護者支援」という問題意識に繋がっている。

谷口さんの本を読んで、
「子どもの安全と健康」の管理で親をガチガチに縛りつけている米国社会や、
ミッシェル・オバマの「レッツ・ムーブ」運動の押しつけがましさから、
私の頭に浮かび続けているのは、そういう諸々。

これについては、まだまだ考えたいことも
考えないといけないこともあると思う。


「科学とテクノで簡単解決文化」は
人を「能力」と「機能」の総合としか捉えない?

トランスヒューマ二ストの誰かが言っていた。

科学とテクノがこのまま発展すれば
「24時間戦える兵士」や「24時間働ける看護師」を作ることができるんだぞ……と。

これを未来のユートピア像として説くTH二ストには
24時間働かされる兵士や看護師の人権という視点はないけど、
でも、人権をはく奪され、24時間「機能」を果たし続けろと強要されるなら、
それは「兵士」や「看護師」という「職業人」ではなく「奴隷」だと思う。

しかも、
これを「みんながハッピーになれる世界」の話として語るTH二ストの口調には、
自分はそうした管理と支配を受ける側には回らないとの想定だか幻想だかがある。
どういう根拠によるのかは私にはわからないけれど。

そこのところのTH二ストの、ある種のおめでたさが、私には
かつてコイズミ劇場に熱狂した人たちを思い起こさせる。

そういう大きな時代のダイナミズムみたいなものによって、

人は、こうして、
いくらでもかけがえのある能力や機能の総合体としてしか捉えられず、
能力と機能の総合体としてのみ価値を計られて、
その評価で強引に振り分けられ管理されていく……んだろうか。

あ、そうだった、
「利用可能な人体組織の集合体」としての価値……というのも、あるんだった。


              ――――――

ちなみに上野千鶴子さんの「ケアの社会学」の一節(p.139)に
コミュニケーション行為としてのケアをロボットでは省力化できないし、
介護ロボットを考えつく人はいても育児ロボットを考えつく人はいないことを考えると、
「コミュニケーション行為であるケアの性格を無視した、高齢者差別のあらわれであろう」と
書かれていて、激しく共感しつつも、

いや、上野先生、育児ロボットもすでに開発されているんですよ~、と ↓


上野先生が、
いくらなんでも「育児ロボットまでは考えつく人はいないだろう」と考えるのは
「育児がコミュニケーション行為だということを理解しない人はいない」という
前提があるんだと思うけど、

でも、それがぁぁぁ、
もう日本にだって沢山そういう人が出現しているから、
私はコワいんですよぉぉぉ……。


【追記】
上のPaPeRoのエントリーで以下のように書いていた。

トランスヒューマニストらを筆頭に”科学とテクノロジー万歳”文化の人たちはなんで物事をすべからく差し引き計算でしか捉えられないのだろう、と、いつも思う。
人間もまた能力の総和としてのみ捉える彼らの感覚で行けば、子どもがロボットに飽きるのも人間とロボットの能力差のためということになるのかもしれないけど、
子どもがロボットに飽きるのは所詮ロボットはプログラムに過ぎないからであり、「人の能力に敵わない」からではなく、人のように「かけがえがない」存在になれないからでしょう。
ロボットが物語を読むのは「読み上げる」のに過ぎないのであって、物語を「読み聞かせる」ことができるのは人間だけだと私は思う。
「かけがえのない」存在だからこそ、人にはそれぞれの「持ち味」や「芸」がある。
だ~れがロボットの落語を聞いて愉快なものか。
ロボットが弾くピアノやバイオリンに、だ~れが感動するものか。