「子どもがひとりで遊べない国、アメリカ」から「メディカル・コントロールの世界」へ

谷口輝世子さんの「子どもがひとりで遊べない国、アメリカ」を読んでいたら、
おや、これは……と、強いデジャ・ヴがやってきた個所があった。

それが、まず個人的に、ちょっと可笑しかったので抜き出してみる。

アメリカの子ども達の肥満対策としてオバマ夫人が旗を振って始めた
「レッツ・ムーブ」キャンペーンで、親に向けて繰り出される啓発情報について、
著者は以下のように書いている。

 これを読んでいると、私は「親のみなさん、がんばれ」と言われている気分になる。学校への登下校につき添い、栄養バランスを考えてスナック菓子や砂糖漬けのお菓子を避けて、健康的な食事を用意し、子どもが最低一日六○分間、体を動かすのに付き合う。学校からは宿題をやり終えたかどうか確認して、サインをするように言われているし、低学年は親が付き添って一日二○分程度、本を読むようにとも言われている。他のしっかりした親なら出来ることなのかもしれないが、これらを全部やろうと努力すると、私などは子どもの健康を守るまえに、自分の健康と精神的な安定が損なわれるのではないかと心配になってくる。
(p.178)


これが何にデジャ・ヴしたかというと、
ずっと前にspitzibara自身が母子入園での専門家からのご指導について書いた、これ ↓

 日々、三食とも栄養に万全に気を配った食事を申し分ない調理法で用意し、それを子どもの嚥下能力や手の機能に万全の注意を払った介助法で食べさせ、けいれんを誘発しないために「空腹」にも「食べ過ぎ」にもせず、便秘予防のマッサージと体操にも怠りなく、子どもに触れるたびに身体の各部分の機能を念頭に置いた扱いをし、子どものありとあらゆる姿勢にも同様に気を配り、欠かさず毎日数回の訓練を施し、子どもが飲み食いをするたびに正しく磨き残しのない歯磨きを励行し、しょっちゅう子どもの国の中を覗き込んで虫歯を点検し、また知能の発達を促すための工夫を生活のあらゆるところに組みこんで、常に為になる遊びを心がけ、なおかつ子供にストレスを与えず……うわぁあああああああああ、息がつまるぅ、そんなこと、できるかぁ!
「海のいる風景」 P.72


なんといっても、最後のところ

全く同じことを書きながら、
それぞれの書き方のあまりに歴然とした違い方が
いかにもキャラの違いと思えて、ぶっと吹いてしまった。

それから、
このデジャ・ヴで考えた、もう1つは、ちっとも愉快ではないけれど、

私がこの本を読む前から何となく感じていた、
ここに描かれている「子どもがひとりで遊べな」くしている米国のガチガチの空気は
科学とテクノの簡単解決で子どもへの操作・管理を強めていく、
“メディカル・コントロール”の傾向に根っこで繋がってるんじゃないのかなぁ、と
漠然とした予感が、確認されたような気がしたこと。

子どもの安全と健康だけを優先目標とする狭く硬直した価値意識で
これだけが正しい、と親を高いところから指導し、
一方的にそれに従わせようとしてかかるのは、

子どもの機能改善だけを念頭に
親をその目的達成に邁進する良き療育者とするべく
高圧的なパターナリズムで親を教育・指導してかかっていた、
かつての日本の障害児医療の姿勢を思わせる。

それはそのまま
患者にとって「生活」は「医療」より大きくて「医療は生活の中にある」んだというのに、
医療の世界の人の意識では、どうしても、そこのところが倒錯していて、
「医療」は「生活」よりも大きく「患者の生活は医療の中にある」と思いこんでいることを
私には思わせるのだけれど、

その「医療」と「生活」を
昨今の世の中では「科学」と「文化」に置き換えてもいいような気がする。

私はこのブログをやりながら、
科学とテクノの急速な発達と、その可能性にどんどん高まっていく期待によって、
(科学とテクノの背景にある利権が先取り期待でさらに煽ることによっても)
医学など本来なら狭い専門領域に限定された価値意識であったものが
広く世の中一般に浸透し、共有され、むしろ優位になりつつあるんじゃないか、

本来は科学とテクノは、より大きな文化の一部であったはずなのに、そこが逆転して、
科学とテクノの価値意識が文化全体を飲みこもうとしているのではないか、という
なんだか不気味な感じを持っている。



米国の子どもの肥満では、
いくら指導しても子どもの肥満に十分な対応をしない(と判断された)親から
親権を取り上げて子どもを施設に入れるケースがこのところ論争になっていて、

Ashley事件でも無益な治療論でもエンハンスメントでも
臓器移植の死亡提供者ルール撤廃でも「司法は医療に口出すな」でも
あらゆる問題でトンデモ・ラディカルな主張を展開しているNorman Fostが
肥満児の親からの引き離し問題でも「目的は肥満解消」「命を救う」とまで言って
「子どもの利益」によって擁護論に立っている。
(詳細は8月29日の補遺からの抜粋を含めて12月6日の補遺に)

子どもへの肥満防止目的での胃のバンディング手術が急増していて、
私が英文ニュースを読み始めた06年、07年ころにはまだ見かけた
こういう傾向に懐疑的なトーンの報道は最近はあまり見かけなくなって、
むしろ効果があるのだから保険適用を徹底せよという専門家の提言まで出てきているし、

Ashley事件での彼の擁護論からしても、Fostなら、
親権をはく奪されて親子が引き離されたくなければ
子どもに胃の手術を受けさて肥満を解消できるのだから
親の決定権でやればいいと、しゃらりとして言うだろう。

矛盾してないか? と思うのは
科学とテクノで子どもを非治療的侵襲のリスクに晒すことや
子ども自身には利益のない医学実験の被験者とする決断については
「親の決定権」を絶対視して見せるFostが
肥満の子どもの親から親権をはく奪することにはためらいを見せないことだ。

さらに、
以下のエントリーで紹介したように、Fostは、
保育所で「虐待ハイリスクの親」を特定し家庭訪問員を送って指導・予防(監視も?)するプログラムを
既にウィスコンシン州で推進している。「小児科医の責務は子どもを守ること」と言って。



これらは、この本で描かれている
「小学生の子どもを一人で遊ばせると親が育児放棄に問われる」世界の
すぐ先に待っている未来の米国なのでは……?

そして、
感染予防のためには赤ん坊のオムツは親よりもロボットが替える方が良い、
ついでにサンプルを採取してデータが取れればさらに理想的、と
本気で考える児童精神科医が日本にも出現していることを思うと、
(詳細はこちらのエントリーのコメント欄)

その未来型社会の空気は、
日本でもじわじわと広がりつつあるのかも……?