高谷清著「重い障害を生きるということ」メモ 2

前のエントリーからの続きです。

この本を読みながら重い障害のある子どもをもつ身として非常に強く感じるのは
「こんな医師もいたんだぁ……」という率直な驚き。この感想はミュウの父親も全く同じだという。

著者は若い頃に全障研に参加し、「医療に対する怨嗟の声」をたくさん聞かされたという。
そして、その中から学ぶうち、それらを「恨み節」ではなく
医療に対する「ラブコール」として受け止めるようになったとも書いている。

著者はそうした「ラブコール」から以下のような気付きを得ていく。

……障害のある人にとっては、医療というのは病気を治したり障害を軽くするために存在するのではなく、本人から生活を奪う存在になっているのではないか、ときには人権を侵害しているとの実感をもった。
(p.19)

 医療は、発熱や下痢などの「症状」の「改善」をおこない、その原因である「病気」を「治療」する。しかし本人が生活するのに困っている脳性まひや自閉症などの「障害」について、あるいは障害がある人の「健康増進」「障害の改善」や「成長・発達の問題」については何もなし得ていない。実際には医療の専門家でない保育者や教師などによって「障害」の「改善」「軽減」、「健康」などの努力がなされている。その家族や保育者などの取り組みに対して医師が、「外出すると感染症に侵される」「健康を害する」「てんかん発作を誘発する」など「健康管理」の名目で生活を制限し、その結果「健康増進」が妨げられるということがおこっている。
(p.21)

まさに私自身を含めて多くの当事者や家族が医療に対して訴え続けてきたことだと思うし、次の下りも然り。

……医療は医師など医療従事者と患者(障害者・家族)とが向きあって「治療」がなされているが、これでは治す者と治される者の関係だけということになってしまう。そうではなく「病気」あるいは「障害」を対象にして、医療従事者と患者が横に並んで協力しながらとりくんでいくというのが医療のあり方ではないかと強く思った。
(p.24)

私も偶然、4月に全く同じ表現で同じことを書いている ↓

所長、保護者と対峙するのではなく横に並んで共に考えてください、という訴えを受け止めてくれる人と、私はいつまで出会うことができるのでしょうか。
所長室の灰皿(2011/4/20)

実際、この「所長室の灰皿」や冒頭にリンクした10月のエントリーなどでも書いたように、
私たち親子はそれなりに出会いに恵まれてきた方だと思うのだけど、それでも、
高谷氏が重い障害のある子ども達に向けるまなざしの深さには
夫婦ともに、はるかに「並みじゃない」ものを感じる。

それを最も痛感するのは
施設に入園したばかりの重い障害のある子ども達がいきなり親と引き離されて
わずかの間に体調を崩し、死んでしまうケースを紹介・考察する個所。

こういうケースがあることは私も娘の施設でも他の施設に見学に行った際にも聞いたことがある。
その教訓から、初めて親と離れて入所する際には徐々に慣れていけるように
親の宿泊施設を作ったという話も、よく聞く。

ただ、そうした際に、
子ども達がそういう状況で急死する理由について言われるのは
「親と同じだけの丁寧なケアが、その子についてまだ不慣れな施設ではできなかった」とか
「親の介助でないと食べようとしなかった」とか、せいぜい漠然と
「親といきなり離されたら、こういう子は不安定になるもの」という辺りのことだった。

そのことについて、ここまで深く考えてくれる人には出会ったことがない。

 子どもたちは、どんなに恐怖があったことであろう。それまで家族と離れたことがなく、それがまったく理由がわからぬまま遠い場所に来て、突然恐ろしげな場所で一人ぼっちになり、わからない言葉を発する白い衣を着た人たち、変形した身体を横たえ奇妙な声を出す同室の子どもたち、あわただしい人の動きやさまざまな騒音、まったく異質の世界に放りだされて、どんなにか不安で、どんなにか恐怖があったことであろう。そのため緊張し、泣き喚き、体は変調をきたし、高熱を発し、食べ物を受けつけず、睡眠をとれなかった。精神の恐怖は肉体を急速に蝕み、ついにわずかな時間で生命を抹殺することになった。
 人間の精神は、理由のわからない耐え難い不安と恐怖にさらされたとき、自らの身体を殺してしまうことによって、終息させることがあるという恐ろしくも尊い事実であった。
(中略)
……この子らは不安、恐怖とともに絶望の深淵に身をおいてしまったのだと思う。希望を失ったのだと思う。
(p.36-37)

もう1つ、例えば、
「重症児は音にびっくりして身体を緊張させたり不随意運動やけいれん発作が起きやすい」と
通常は理解されている(白状すると私もその程度で止まっていました)現象について、
著者が「恐怖」のための「叫び」が発作と間違われたケースを紹介した後で

 周囲の状況を認識できない人に対しては、音であれ皮膚への接触であれ、最初は弱くおこない、さらに必要であれば徐々に強くするという配慮をしたい。この人たちは、身体的に自由が利かないし、ものごとの認識もできないのであり、「感覚」が外界の状態と本人の関係、結びつきのきわめて大きな部分を占める。しかも、「避ける、逃げる」ことができない状態で、外部からの刺激を受けることになる。
そのために、「驚き」「不安」や「恐怖」というだけでなく、生命体の存在そのものが脅かされ抹消されるという「本源的な恐怖」を感じるのではないかと思うのである。
(p.58)


何がすごいって、著者が子どもたちの「身になって」いること。
「こうした心身に重い障害のある人たちは、世界をどう感じているのか」を考察しようとして、
著者はもの言わぬ、多くの人に「何も分からない」と考えられている当人の「身になって」、
こんなにも細やかな想像力を深く、深く、働かせていく――。

これは、つくづく、すごいことだと思う。

ミュウを通じて出会ってきた「専門家」に私がずっと感じる壁の一つは
「専門家」は相手を「対象」としてしか見ない、ということ――。

「自分はこの人をどうアセスメントするか」「自分はこの人に何ができるか」と、
すべてが「専門家としての自分」からスタートして
相手を「専門家としての自分にとっての対象物」にしてしまう。
そして、そのことにまるで気付こうとしない。

もちろん専門家の仕事は相手を対象化しないと始まらないのだから、
対象化することがいけないと言うつもりはない。
でも、それに無自覚だと、それだけで終わってしまうから、
「本人にとってどうか」が欠落したままになって、
本人や家族は非常に困る。

相手を「対象」にして終わる「専門家」は
「医療」や「福祉」を起点にその範囲でだけモノを見て考え、
それよりもはるかに広い「生活」を見ようとしない。
当人や家族の「身体」や「機能」や「能力」を見て「人」を見ない。
だから「相手の身になってみる」という想像力が働かず、「共感」どころか
「ごく最低限の人としての配慮」すら欠いた無神経な言動で
当事者や家族を傷つけてしゃらりとしている。

当事者や家族の言動に対する判断・反応の基準が
「自分を認め称賛するか批判するか」「自分の仕事がやりやすいか、やりにくいか」になって、
そもそも「誰のための自分の仕事なのか」が忘れられていく。

そんな「専門家の限界」にずっと不満を感じてきただけに、
これほどまでに細やかな想像力で重い障害を持った子ども達の「身になって」
彼らにとって「世の中はどういうふうに感じられているのか」を掘り下げていく著者に、

え? こんな医師だって、いたの……? と、まず率直に驚くし、

子どもたちに向けられた、その深く温かいまなざしを通して
「感覚的存在」として、「身体的存在」として、
「意識」とは「反応」のことだとする医学の捉え方の限界から
その両者を区別するために「外在意識」と「内在意識」という独自の概念を導入して、
さらに、こころで関係を結び周囲と繋がった「関係的存在」として、
重い障害のある子ども達を考えていこうとする段階を経て洞察が深められ
「人間的存在」としての深みへと至る過程は圧巻。

年齢を重ねても「自己意識」は育っていないことが多いと考えられる。しかし、「意識」は育っていないかもしれないが、「自己」は育っている。
(p.99)

 ある人びとは、この「自意識」こそが人間である証だという。だが人間形成の過程をかんがえてもそうではない。人間の「自意識」や「理性」といわれるものは、人間が「からだ」を使って、「協力」し、得たものを「分かちあう」ことによって「こころ」を豊かにし、「共感」する「こころ」を育ててきた。けっして突然「脳内」に「自意識」や「理性」がうまれたのではない。「協力・分配・共感」という基盤があってこそ「人間」が形成されてきたのである。
個々には「障害」のために「自意識」や「意識」が育たないこともあるであろう。ただ重い障害のある人との間で、人類が経験してきた「協力・分配」がなされ、「共感」することにこそ人間の特質があり、協力する人も、される人も人間として存在し、それぞれに人間的な「こころ」が成熟していくのであろう。
(P.102 注:高谷氏の「協力」については冒頭にリンクした10月のエントリーにも)

私がAshley事件との出会いから重症児の「意識」についてずっと考えてきたこと、
このブログで訴えてきたこと、というのも、まさに、こういうことだった。
私は例えば、以下のようなことを書いてきた。

「知能が低いから重症児は赤ん坊と同じ」とDiekema医師は言った。でも、それは、ゼッタイに違う、と思う。子どもはホルモンや体や知能だけで成長するわけじゃない。経験と、人との関わりによって成長するのだから。体と頭だけじゃない。心も成長するのだから。限りなく成長する可能性を秘めているのは、人の心なのだから。
ポニョ(2009/7/23)

認知は static ではない。発達も static ではない。人の心も決して static ではない。人が環境の中にあり、人との関わりの中にあり、そこに経験がある以上、人の心は成長し、成熟し続ける。認知も含めた総体として、人は成長し、成熟し続ける。障害があろうとなかろうと──。
「脳が不変だから子どもも不変」の思い込みで貫かれている……A療法の論理に関する重大な指摘(2009/12/16)

そういうことを振り返る時、
重症心身障害のある子どもたちを診てきた医師と、そういう子どもを持ちAshley事件と出会った母親とが
同じ時期に同じ問題意識からそれぞれ本を書いたのだということに、どこか必然みたいなものを感じる――。

次のエントリーに続きます。