トリソミー13の新生児に心臓手術を認めた倫理委の検討過程 2

前のエントリーの続きです。


Daniel君のケースでの心臓手術について検討された利益は、

① 延命。
② 長らえた命を生きる間に本人が感じる喜び
③ VSDで死ぬと苦しい死になるので、その軽減になる。
④ 親にとって息子が生きることは喜び
⑤ 2人の子どもにとって弟が生きることは喜びでもあり、
重い障害のある子どもの命について学ぶ良い経験にもなる(と親が主張)

この中の④と⑤については
委員の中から「本人ではなく他者の利益である」との指摘があり、
それに対して「家族全体の利益も検討して然り」との意見も。

検討された負担は、

① 手術の痛み
② 手術による合併症のリスク
③ 重い障害のある生が引き延ばされること
④ 2人の子どもにとって重い障害のある弟の存在は負担になる可能性
⑤ 社会にとっての負担

この中の①と②については、軽減できることが確認され、
主たる負担は障害だということになる。


ここでPECは
好きな人を連れて来てよいとの条件で両親にも出席を求め、委員会を開く。

関係者すべてがそれぞれの意見を聞いておくため、
オープンで正直な議論が補償されるため。

なお両親は裕福な専門職で、息子の障害や治療についても
また医療倫理の検討についてもインターネットで詳細情報を身につけている。

そこで両親が語ったことは
ダニエル君への介護支援も兄弟に対して必要な支援も十分に賄えること、
障害は重くとも生きられるだけ生きることが本人のためだと思うこと、
ダニエル君の存在とケアが他の子ども達の教育上も望ましいと思っていること、
ここで拒否されたら別の病院を探して手術してもらう考えであること。

外科医は手術の実施に前向き。
親がいるためか、この段階であからさまな反対意見は出ない。

次に委員会は、委員だけの検討に進むが
そこで出た疑問と議論はたいそう今日的で興味深い。

「公平な医療資源の分配という観点から、この手術はどうなのか、
それだけの費用を他に回せば、もっと多くの子どもの命を救うことができるのでは?」
との疑問が上がり、

それに対して議論の末のPECの結論は
「通常、どの患者でも医療判断は本人のニーズと利益に基づいて行われており、
この患者だけに別基準を適用するのは公平ではないので、このケースでも
患者本人のニーズと利益の検討のみによって判断する」というもの。

最終的に、PECは利益と負担を明確に把握することは困難だとして、
本人利益については親の判断を良しとすることになった。

Daniel君の手術は行われ、
彼は現在4歳。自宅で暮らしている。


--------------

このケースを読んで私が思ったこととしては、

・この論文のケース報告以前の倫理委そのものについての概要説明の部分でも触れられているけど、
倫理委の議論がどういう姿勢のものになるかは、なるほど委員長の姿勢に左右されるんだな、と。

・負担の⑤として挙げられた「社会への負担」について
どのように検討されたのかを論文は個別に言及していないのだけれど、
裕福で介護費用を賄える親だったから手術が認められた、というのは明らかだし、

・じゃぁ、親が裕福でなかった場合に認められない可能性があるとしたら、その異なった結論は、
この一連の議論のリスク利益の比較考量や公平性に関する部分とどのように整合し、
どのように正当化されるのか?

・そもそも倫理委の最善の利益検討で「社会への負担」が指摘されることそのものが
「障害児・者の存在は社会への負担」だという認識が共有されていることを物語っている。

この論文は、
倫理委が良心的かつ模範的な検討を行ったケースとしてDaniel君のケースを紹介し、
「無益な治療」判断で倫理委が役割を果たせると主張していると思われるのだけれど、
病院内倫理委員会という装置そのものがそうした優生思想を織り込んでいること自体、
それって、どうなの?

・もしも社会全体に「障害児・者の存在は社会への負担だ」という認識が
いまだに一般的なものとして受け入れられていないのに
医療倫理においてのみ織り込まれてしまうとしたら、
倫理委員会の検討は、それを問うところから始まるべきなのでは?

NICUでの「無益な治療」判断をめぐって病院内倫理委に大きな機能を持たせようとするのは
結局はTruogがGlubchuk事件で言っていたように
医療の価値意識の中で重症障害のある子どもの治療やQOLを云々するだけ、
結局、医療の価値意識のなかでの「良心的かつ模範的」でしかないし、

それですら倫理の検討の質を保障するすべがないわけだから
思考停止による機械的「すべり坂」が起こる懸念は払しょくできないし、

そうなれば、倫理委は結局、
メディカル・コントロールの正当化装置にしかならないのでは?

                  ――――――

また、Ashley事件に関連して考えたこととして、

① 親を倫理委の会合に出させて、自分たちの主張について説明させることそのものは
さほど特例的なことではないのかもしれない。

もっとも、
親にパワーポイントを使ったプレゼンまでさせるかどうかはまた別問題だろうし、
しかも倫理的に問題のある療法を親が提案したからといって、そういう場を設けるのも別問題で、
Ashley事件の場合には他の諸々の状況から、やっぱり「特例」としか思えないのではあるけど。

② それにしても、アシュリー事件の04年の倫理委の議論には
 この論文に報告されているような論理的な段階を踏んで行われたエビデンスが全く出てこない。

③ とりわけ、その後の正当化において
リスク・ベネフィット検証の中で何が議論されたかが
このように具体的に説明されたことがないことの異様さを改めて痛感させられる。

④ Diekema医師も、こうした論文に引用されるほどの生命倫理学者なら
あの04年の倫理委の議論の内容について、これくらい具体的な報告を出してみたらどうよ、
と、またも考えるし、

それだけの学者にして、それができないこと自体が
十分な倫理検討が行われなかったことを自ら認めるに等しいではないか、とも、改めて強く思う。


もう1つのケースについて次のエントリーに続きます。