「現代思想2月号 特集 うつ病新論」を読む 3: 社会と医療の変容と「バイオ化」

この特集には、社会学者の樫村愛子氏のほかに、もう一人、
「安易な薬物療法」を取り上げ、その背景情報を詳細に調べて書いた人がいる。

もちろん精神科医ではなくジャーナリストの粥川準二氏。
「バイオ化する社会 うつ病とその治療を例として」。

これが、たいそう面白かった。

というか
なぜか日本では報じられることのない、ビッグ・ファーマの周辺で起きている諸々について
当ブログが関連のニュースを目につく折々に拾うことで描き出そうとしてきた「大きな絵」を、

粥川氏は、専門家の論文資料を詳細に当たるという方法によって
検証し、描き出そうとしているのだと思う。

しかも、さすがはジャーナリスト。

私が「科学とテクノの簡単解決文化」と、かったるい呼び名をつけてきたものに
見事に簡潔明快な呼び名が与えられている。

――バイオ化

なるほど~。

医療化 medicalization」については、
私は“Ashley療法”論争の際、07年2月のSalonの記事で
ある医師からの批判として「これは医療化だ」の発言と出会って知り、
その後の論争の中であれこれ調べるうちに、その意味するところも理解した。

このあたりのことについて粥川氏は以下のように解説する。

医療社会学や医療人類学では、かつて医療の管轄ではなかった物事が医療の管轄に入る現象や社会変容、いわば医療の管轄範囲の拡大を「医療化」と呼ぶ。たとえば医療社会学者ピーター・コンラッドは医療化を「非医療的問題が医療的問題(多くの場合、病いや疾患)として定義される過程」と定義する(Conrad 2007:4)。

アデレ・クラークはその議論をさらに推し進め、一九八○年代半ば以降の生物医療の劇的な変化を踏まえて、医療化を「生物(バイオ)医療化」と呼び直している。
(p.157)


その一部として「遺伝学化」がある。

「遺伝学化」とはカナダの研究者アビィ・リップマンが
「健康問題や社会問題に対する視点において遺伝学が優位になること」に対して
名付けたものだとのこと。

粥川氏は、うつ病治療の遺伝学化に続いて
抗うつ薬の効果の実証研究論文をいくつも当たって「抗うつ薬の神話」を浮き彫りにした上で、
次のように書いて「バイオ化」という言葉を説明する。

筆者はリップマンやコンラッド、クラークらの見解に対してとくに異論はないのだが、生物医療化という現象もしくは社会変容には、医療化という側面だけでなく「脱医療化」と呼んでもよさそうな側面がある。そのとき患者やその予備軍は、治療の対象となっているというより、単にマーケティングや管理の対象となっているだけのように見える。だからここではあえてその点を重視し、暫定的に「バイオ化」という言葉を使ってみたい。

うつ病には何らかの「原因」があると仮定し、それを遺伝子に求めるようなことはバイオ化の典型である。……(略)……しかしうつ病のバイオ化は、うつ病のほかの要因、特に社会的因子への視点をそらしてしまわないだろうか。筆者がとくに懸念するのは、所得や地位などうつ病と関連深い社会的因子への着目がおろそかになってしまうことである。
(p.157)


前半の「脱医療化」というのは、ちょっと分かりにくい感じもするけど、
つまりは医療のネオリベ「えげつないショーバイ」化、ぶっちゃけていえば、
例えば、グローバル強欲金融(ついでに慈善)資本主義に煽られたビッグ・ファーマの
なりふり構わぬ、人命軽視の利益至上主義のことですね。

その裏付けは、粥川氏も何本もの論文を紹介しているし、
当ブログの「科学とテクノのネオリベラリズム」の書庫にも沢山ある。
なぜか日本では報道されることがなく、研究者も手を触れないだけで、「ない」わけではない。

そして、粥川氏もタイトルで「例として」といっているように、
それは実は抗うつ薬だけで起きていることでもなくて、
ワクチンを含む予防医療も“有望マーケット”視されている。

というか、むしろ
訴訟やスキャンダル続きの抗うつ薬のマーケットに儲けの糊代は小さいと踏んだ製薬会社が
ターゲットをワクチンにシフトしてきている、という読みがある
私は当たっているんじゃないかと思う。

そんなふうに本来、保健・医療の問題であるはずのものを
国際競争における生き残りをかけた各国経済施策の問題にすり替えてしまう構図
この特集でずっと議論されている①の社会の病理の根本にあるのだとも思う。

①と②と③とが、ぐるりと、そういう繋がり方をしてしまう、
その繋がりこそが最も深刻な今の世界の病理なんじゃないか、とも思う。

そして、それがさらに社会のあり方や共有される価値意識や社会施策の姿勢に影響していく。
いっそう操作主義的な方向へと社会全体を「バイオ化」していく。

上記引用箇所の後半の粥川氏の指摘は、そのことだと思うし、
それこそ“Ashley療法”論争の大きな論点の一つ。

「社会モデル」で「医学モデル」を否定してきた障害当事者らが
「人を変えるな、社会を変えよ」と“Ashley療法”を批判しているのはこういうことだ。

けれど、07年からAshley事件とその周辺で起こっていることを追いかけてくると、

少なくとも英語圏、特に米国の医療は「社会モデル」など一顧だにするつもりもないままに、
法や福祉や教育など医療以外の分野の知見など取るに足りないとばかりに排斥し、

(Norman Fostらの司法介入への激しい忌避を考えると、
ある意味、医療が”シビリアン・コントロール”を拒絶し始めていると言えるのかも?)

むしろ障害当事者を手始めに
すべての人間を強引に医療化、バイオ化の対象に引きずり出し
それによって身体(臓器も含め)のみならず、生命にまでも
その一方的な支配を及ぼしていこうとしているように見える。

生まれてくる前から医療によって選別され、
(詳細は「新・優生思想」の書庫に)

病気になったり障害を負った際には
「生きてもよい人」と「生きる価値がない=生きてはいけない人」を医療が選別し、
(詳細は「無益な治療」の書庫に)

遺伝学と脳科学と、その他もろもろの“科学的エビデンス”によって、
(そこには「ない研究は、ないという事実そのものが見えなくされる」イルージョンがある)
病気や障害のリスクの高い「予備軍」が選別され、

その中からさらに
科学とテクノで救済(改造あるいは治験対象者化も含め)可能な予備軍と救済不能な予備軍とが選別されて、
後者は生きるに値しない命として葬られていく。

バイオ資材としての有効利用の可能性に応じて、
貴重な臓器を無駄にしない葬り方によって――。

予備軍に過ぎない段階で――。

遺伝学化、脳科学化、バイオ化による操作主義の、
まさに、昨日のエントリーで書いたメディカル・コントロールの時代――。

Norman Fostが頭に描いているのも
Julian Savulescuが思い描いているのも、
たぶん、そういう世界であり、そういう未来――。