「現代思想2月号 特集 うつ病新論」を読む 3: 社会と医療の変容と「バイオ化」
これが、たいそう面白かった。
というか
なぜか日本では報じられることのない、ビッグ・ファーマの周辺で起きている諸々について
当ブログが関連のニュースを目につく折々に拾うことで描き出そうとしてきた「大きな絵」を、
なぜか日本では報じられることのない、ビッグ・ファーマの周辺で起きている諸々について
当ブログが関連のニュースを目につく折々に拾うことで描き出そうとしてきた「大きな絵」を、
粥川氏は、専門家の論文資料を詳細に当たるという方法によって
検証し、描き出そうとしているのだと思う。
検証し、描き出そうとしているのだと思う。
しかも、さすがはジャーナリスト。
私が「科学とテクノの簡単解決文化」と、かったるい呼び名をつけてきたものに
見事に簡潔明快な呼び名が与えられている。
見事に簡潔明快な呼び名が与えられている。
――バイオ化。
なるほど~。
「医療化 medicalization」については、
私は“Ashley療法”論争の際、07年2月のSalonの記事で
ある医師からの批判として「これは医療化だ」の発言と出会って知り、
その後の論争の中であれこれ調べるうちに、その意味するところも理解した。
私は“Ashley療法”論争の際、07年2月のSalonの記事で
ある医師からの批判として「これは医療化だ」の発言と出会って知り、
その後の論争の中であれこれ調べるうちに、その意味するところも理解した。
このあたりのことについて粥川氏は以下のように解説する。
その一部として「遺伝学化」がある。
「遺伝学化」とはカナダの研究者アビィ・リップマンが
「健康問題や社会問題に対する視点において遺伝学が優位になること」に対して
名付けたものだとのこと。
「健康問題や社会問題に対する視点において遺伝学が優位になること」に対して
名付けたものだとのこと。
筆者はリップマンやコンラッド、クラークらの見解に対してとくに異論はないのだが、生物医療化という現象もしくは社会変容には、医療化という側面だけでなく「脱医療化」と呼んでもよさそうな側面がある。そのとき患者やその予備軍は、治療の対象となっているというより、単にマーケティングや管理の対象となっているだけのように見える。だからここではあえてその点を重視し、暫定的に「バイオ化」という言葉を使ってみたい。
うつ病には何らかの「原因」があると仮定し、それを遺伝子に求めるようなことはバイオ化の典型である。……(略)……しかしうつ病のバイオ化は、うつ病のほかの要因、特に社会的因子への視点をそらしてしまわないだろうか。筆者がとくに懸念するのは、所得や地位などうつ病と関連深い社会的因子への着目がおろそかになってしまうことである。
(p.157)
うつ病には何らかの「原因」があると仮定し、それを遺伝子に求めるようなことはバイオ化の典型である。……(略)……しかしうつ病のバイオ化は、うつ病のほかの要因、特に社会的因子への視点をそらしてしまわないだろうか。筆者がとくに懸念するのは、所得や地位などうつ病と関連深い社会的因子への着目がおろそかになってしまうことである。
(p.157)
前半の「脱医療化」というのは、ちょっと分かりにくい感じもするけど、
つまりは医療のネオリベ「えげつないショーバイ」化、ぶっちゃけていえば、
例えば、グローバル強欲金融(ついでに慈善)資本主義に煽られたビッグ・ファーマの
なりふり構わぬ、人命軽視の利益至上主義のことですね。
つまりは医療のネオリベ「えげつないショーバイ」化、ぶっちゃけていえば、
例えば、グローバル強欲金融(ついでに慈善)資本主義に煽られたビッグ・ファーマの
なりふり構わぬ、人命軽視の利益至上主義のことですね。
その裏付けは、粥川氏も何本もの論文を紹介しているし、
当ブログの「科学とテクノのネオリベラリズム」の書庫にも沢山ある。
なぜか日本では報道されることがなく、研究者も手を触れないだけで、「ない」わけではない。
当ブログの「科学とテクノのネオリベラリズム」の書庫にも沢山ある。
なぜか日本では報道されることがなく、研究者も手を触れないだけで、「ない」わけではない。
というか、むしろ
訴訟やスキャンダル続きの抗うつ薬のマーケットに儲けの糊代は小さいと踏んだ製薬会社が
ターゲットをワクチンにシフトしてきている、という読みがある。
私は当たっているんじゃないかと思う。
訴訟やスキャンダル続きの抗うつ薬のマーケットに儲けの糊代は小さいと踏んだ製薬会社が
ターゲットをワクチンにシフトしてきている、という読みがある。
私は当たっているんじゃないかと思う。
そんなふうに本来、保健・医療の問題であるはずのものを
国際競争における生き残りをかけた各国経済施策の問題にすり替えてしまう構図が
この特集でずっと議論されている①の社会の病理の根本にあるのだとも思う。
国際競争における生き残りをかけた各国経済施策の問題にすり替えてしまう構図が
この特集でずっと議論されている①の社会の病理の根本にあるのだとも思う。
そして、それがさらに社会のあり方や共有される価値意識や社会施策の姿勢に影響していく。
いっそう操作主義的な方向へと社会全体を「バイオ化」していく。
いっそう操作主義的な方向へと社会全体を「バイオ化」していく。
上記引用箇所の後半の粥川氏の指摘は、そのことだと思うし、
それこそ“Ashley療法”論争の大きな論点の一つ。
それこそ“Ashley療法”論争の大きな論点の一つ。
「社会モデル」で「医学モデル」を否定してきた障害当事者らが
「人を変えるな、社会を変えよ」と“Ashley療法”を批判しているのはこういうことだ。
「人を変えるな、社会を変えよ」と“Ashley療法”を批判しているのはこういうことだ。
けれど、07年からAshley事件とその周辺で起こっていることを追いかけてくると、
むしろ障害当事者を手始めに
すべての人間を強引に医療化、バイオ化の対象に引きずり出し
それによって身体(臓器も含め)のみならず、生命にまでも
その一方的な支配を及ぼしていこうとしているように見える。
すべての人間を強引に医療化、バイオ化の対象に引きずり出し
それによって身体(臓器も含め)のみならず、生命にまでも
その一方的な支配を及ぼしていこうとしているように見える。
生まれてくる前から医療によって選別され、
(詳細は「新・優生思想」の書庫に)
(詳細は「新・優生思想」の書庫に)
病気になったり障害を負った際には
「生きてもよい人」と「生きる価値がない=生きてはいけない人」を医療が選別し、
(詳細は「無益な治療」の書庫に)
「生きてもよい人」と「生きる価値がない=生きてはいけない人」を医療が選別し、
(詳細は「無益な治療」の書庫に)
予備軍に過ぎない段階で――。