「現代思想2月号 特集 うつ病新論」を読む 2: 精神医療の変容と薬物療法
熊木徹夫という精神科医は「『らしさ』の覚知 診断強迫の超克」という文章で
DSMが隆盛を誇るようになってから、精神科医から“洞察”が失われ、
「精神科医の感性、ひいては精神科臨床の土壌自体がやせ衰えてきた」(p.124)
と書いている。
DSMが隆盛を誇るようになってから、精神科医から“洞察”が失われ、
「精神科医の感性、ひいては精神科臨床の土壌自体がやせ衰えてきた」(p.124)
と書いている。
熊木氏が“洞察”という言葉を使っているのも、私には興味深かった。
鈴木氏は、そのように現在の精神科医療が変化してきていることから、
文化の側面で神経症的な心性に目を向けてきた「神経症文化」が衰退して、
若い精神科医の間に「広汎性発達障害文化」が広がっている、
その文化が旧世代にできない支援を可能にする面も否定はできないが、
DSMのような診断マニュアルの普及も、そうした文化の一端ではないか、と考察する。
文化の側面で神経症的な心性に目を向けてきた「神経症文化」が衰退して、
若い精神科医の間に「広汎性発達障害文化」が広がっている、
その文化が旧世代にできない支援を可能にする面も否定はできないが、
DSMのような診断マニュアルの普及も、そうした文化の一端ではないか、と考察する。
その未来的な意味に思いを致すと、しばし、恐ろしさに茫然となる。
「科学とテクノで簡単解決バンザイ文化」の最先端を突っ走る米国で
大学生たちがADHD治療薬をスマートドラッグとして使っていることや
上記の日本の児童精神科医の方も、安全性と経済性さえクリアできれば
スマートドラッグとして使うことにまったく抵抗感がないように見えたこと、
日本の精神科医の3割程度がそれを肯定するだろうと推測されていたことを考えると、
大学生たちがADHD治療薬をスマートドラッグとして使っていることや
上記の日本の児童精神科医の方も、安全性と経済性さえクリアできれば
スマートドラッグとして使うことにまったく抵抗感がないように見えたこと、
日本の精神科医の3割程度がそれを肯定するだろうと推測されていたことを考えると、
社会の変容(「病理」との捉え方も私たち“過去の遺物”世代のノスタルジーか?)があり、
その変容がそのまま精神医療の変容をもたらし、
そこに樫村愛子氏がいう「DSM診断思想に見られる安易な薬物療法」が出てくるのも、
必然といえば、たいそう分かりやすい必然なのかもしれない。
その変容がそのまま精神医療の変容をもたらし、
そこに樫村愛子氏がいう「DSM診断思想に見られる安易な薬物療法」が出てくるのも、
必然といえば、たいそう分かりやすい必然なのかもしれない。
この特集に寄稿している精神科医の方々は
総じてSSRIを始めとする抗ウツ剤等での製薬会社のマーケティング戦略(“陰謀説”)について
何らかの形で触れつつ、自分個人としてはそれに与することを
(または与していると読まれることを)避けておられるけれど、
総じてSSRIを始めとする抗ウツ剤等での製薬会社のマーケティング戦略(“陰謀説”)について
何らかの形で触れつつ、自分個人としてはそれに与することを
(または与していると読まれることを)避けておられるけれど、
精神科医療から洞察を失わせ、DSM的な操作主義で塗り替えていく
グローバルな自由と競争の社会の病理(変容)の背景には
かつてのゼネコン然とした巨大製薬会社の存在が否定できない以上、
社会経済と精神科医療と薬とは、ぐるりと回って繋がり絡まり合ってもいるのだから、
グローバルな自由と競争の社会の病理(変容)の背景には
かつてのゼネコン然とした巨大製薬会社の存在が否定できない以上、
社会経済と精神科医療と薬とは、ぐるりと回って繋がり絡まり合ってもいるのだから、