「現代思想2月号 特集 うつ病新論」を読む 2: 精神医療の変容と薬物療法

この特集で目からウロコだったのは、
斎藤環氏のいう「操作主義」が精神科臨床にまで及び診断文化そのものが変容している、と
いろんな人がいろんな言い方で指摘していること。

その象徴として何人もが「操作的診断基準」と呼んで言及しているのが
米国精神医学会の精神障害の診断と統計の手引きであるDSM

熊木徹夫という精神科医は「『らしさ』の覚知 診断強迫の超克」という文章で
DSMが隆盛を誇るようになってから、精神科医から“洞察”が失われ、
精神科医の感性、ひいては精神科臨床の土壌自体がやせ衰えてきた」(p.124)
と書いている。

それは、ちょうど、なだいなだ先生が「こころ医者」と呼ぶ姿勢とか眼差し
若い精神科医から失われつつあるということなのだろうな……と私は考えつつ読んだ。

熊木氏が“洞察”という言葉を使っているのも、私には興味深かった。

操作的な思考回路の典型みたいなトランスヒューマニストたちの言説に触れるたびに、
私が感じてきたのも、そこには「知恵がない」ということであり「洞察がない」ということだったから。

鈴木國文という精神科医
「『うつ』の味 精神科医療と噛みしめがいの薄れた『憂うつ』について」という論考で、
まずは、やはり病態が変わったのだろうとの見方を示した後に、以下のように書いている。

DSM-Ⅲが出たためにこう変わったとよく言われますが、DSMが科学論として出てきたからこう変わったというよりも、むしろDSMを歓迎する文化が精神科医療の側にすでにあった、あるいは、DSM的なものの考え方への文化的な変容が社会全体の中にすでにあったからDSMが出てきたのだと私は考えています。
(p.85)


鈴木氏は、そのように現在の精神科医療が変化してきていることから、
文化の側面で神経症的な心性に目を向けてきた「神経症文化」が衰退して、
若い精神科医の間に「広汎性発達障害文化」が広がっている、
その文化が旧世代にできない支援を可能にする面も否定はできないが、
DSMのような診断マニュアルの普及も、そうした文化の一端ではないか、と考察する。

そして、それらの現象が、
「『発展』と『スピード』以外に方向性の見えない」「自由と競争の社会」の
脆弱性」や「不安定性」と深くかかわっている、と指摘する。

この部分を読んで、
赤ちゃんのオムツは親が替えるよりもロボットが替える方が衛生的だから良い、と
主張する児童精神科医が日本にも既に出現していることを知った時の驚愕を思い出した。

考えてみれば、例の「デジタル・ネイティブ」みたいな頭と感性の世代
医療を含めた科学とテクノや経済に留まらず、
司法や教育や様々な専門分野をこれから担っていくわけで……

その未来的な意味に思いを致すと、しばし、恐ろしさに茫然となる。

「科学とテクノで簡単解決バンザイ文化」の最先端を突っ走る米国で
大学生たちがADHD治療薬をスマートドラッグとして使っていることや
上記の日本の児童精神科医の方も、安全性と経済性さえクリアできれば
スマートドラッグとして使うことにまったく抵抗感がないように見えたこと、
日本の精神科医の3割程度がそれを肯定するだろうと推測されていたことを考えると、

社会の変容(「病理」との捉え方も私たち“過去の遺物”世代のノスタルジーか?)があり、
その変容がそのまま精神医療の変容をもたらし、
そこに樫村愛子氏がいうDSM診断思想に見られる安易な薬物療法が出てくるのも、
必然といえば、たいそう分かりやすい必然なのかもしれない。

この特集に寄稿している精神科医の方々は
総じてSSRIを始めとする抗ウツ剤等での製薬会社のマーケティング戦略(“陰謀説”)について
何らかの形で触れつつ、自分個人としてはそれに与することを
(または与していると読まれることを)避けておられるけれど、

精神科医療から洞察を失わせ、DSM的な操作主義で塗り替えていく
グローバルな自由と競争の社会の病理(変容)の背景には
かつてのゼネコン然とした巨大製薬会社の存在が否定できない以上、
社会経済と精神科医療と薬とは、ぐるりと回って繋がり絡まり合ってもいるのだから、

そうした社会の病理と精神科医療の文化の変化だけを言い、
薬物療法偏重の背景についてだけは精神科医の方々が口をそろえて否定されることには、
却って不自然な印象を受けてしまう。

ちなみに「安易な薬物療法」とズバッと書いた樫村愛子氏は社会学者。