「現代思想2月号 特集 うつ病新論」を読む 1: 社会の病理と精神医療の変容

この前、出張先でふらっと入った本屋で見つけて、なんとなく購入、
ホテルで読み始めたら面白くて、一気読みになった。



もちろん、デリダハイデガーフーコーラカンガタリドゥルーズだと
「わしらと同じ教養なき者は去れ」的トーンの議論の部分には、
いつもながら全くお手上げで、といって去ってしまうわけにもいかず、

自分は見たことがない連続ドラマの話を
「まさかマリコトオルを捨てるなんてねぇ」
「しかもサチにまで、あんなひどいこと言われて」
「でも、ほら、前にトオルのメールをカオルが盗み見た時に……」などと
目の前の友人たちに延々と盛り上がられて、おいてきぼりをくらったまま、
退屈を押し隠し、じっと耐えながら話題が変わるのを待っている……
みたいな気分になるのだけど、

そういう部分(半分くらいが、そうだった)を無視して、
あれこれ細かい部分も、この際すっとばし、概要だけを、
私の個人的・一方的な読み方で大胆不敵にまとめてみると、

「新型なんてのも含め、なんで突然うつ病患者が増えたのか」
問題の背景を巡り、大雑把にいって以下の3つについて、
いろんな人がいろんなことを言っている。

① 社会の変容・病理
② 治療文化の変容
③ 抗ウツ剤を巡る製薬会社のマーケティング戦略(陰謀説)
(ただし「陰謀説」という文言は、たぶん斎藤環氏のみ)

私はこれまで①と③については考えてたけど、
②の治療文化の変容というのは盲点だった。

もちろん、3つはそれぞれに独立しているわけではなくて、
それぞれに輻輳しているわけで、

まず内海健という人と大澤真幸という人が
うつ病の現在性 『第三者の審級』なき主体化の行方」という対談で言っている1つは

世の中に人格が未成熟な人が増えたために、
管理職とか親とか、下位のものに対して権威のある存在が
以前の社会では引き受けていた「第三者の審級」(私の理解と言葉で言うと「オトナ役割」)を
果たせなくなってしまっている。

それで、部下や子どもたちは本来なら背後で(方便も含めた)責任を引き受けてくれる存在を失い、
自分が責任を負うだけの力が身がつかないまま(これはオトナ役割の人がいて初めて身につく)、
その相手から逆に名目だけの選択とそれに伴う自己責任を迫られるという
かなり酷いハメに陥っている。そういうのが今の社会病理である、と。

(すみません。お2人の議論は、もっと複雑かつ深遠です。
ここでは、あくまでもspitzibaraの理解と言葉によるまとめ。以下も同じ)

斎藤環氏は
「目的や価値のいかんにかかわらず
『コントロール可能な状態』を維持することのみを偏重する態度」を
「操作主義」と呼び、

この操作主義に取り込まれることによって、
人は過剰な同調性を強要され、主体を失い、混乱し疲弊する、と指摘する。

ちょっと我田引水ではあるのだけど、いずれも
当ブログで「世の中が虐待的な親のような場所になっていく」と表現したのと
同じことを言っているような気がした。

人格が未成熟な親や大人のニーズに奉仕させられる子どもは
ダブルバインド状態におかれ、それによって過剰適応を身につけていく。
そのため、自分と他者との境界があいまいになり、主体を失い、混乱し疲弊する――。

その生きづらさこそ、
アダルトチルドレン(AC)という誤解されがちな用語が
実は見事に掬いとってみせたもの――。

世の中の強者が、過剰に強者らしい振る舞いをしてみせる陰で
実は、自分を客観視したり己の欲望をコントロールできない
未成熟な弱者でしかなくなってしまっているために、
彼らの心の安定のための操作主義が世の中にはびこっていく――。

私自身の理解と言葉で言い換えるとそういうことになるのだけれど、
ここで、ふっと頭に浮かんだのは、

虐待的な親のような場所になってしまった世界で、
親から虐待を受けて育ったACのような生きづらさを抱えたうつ病患者に、
その世界が医療による操作主義で対応しようとするのならば、その診断や治療の姿勢は、
今度は医療のコントロールに対して過剰に同調的になることを要求することによって、
よけいに患者を混乱させ、追い詰めていくのでは……という漠然とした懸念。

もちろん操作主義の文化に染まった人には
そのカラクリは先の①と②がぐるりと繋がった円には見えず、
原因と結果の直線にしか見えないのだろうし、

例えば、クローン牛肉の安全宣言の際にネット上に沢山いたけれど、
疑問を呈する声に対して、自分だって科学者でもないくせに、ヒステリックな上から目線で
「無知なバカに限って危険だと騒ぐ」と問答無用の非難を浴びせていた人たちは
既に過剰適応させられているんじゃないんだろうか。

斎藤環氏は、操作主義のもとで安定可能なのは、
「その都度の欲求が満たされれば満足という」、
「いわば〈動物化〉あるいは〈キャラ化〉した主体」だけで、
そういう主体にとっては現代はむしろ楽園だろう、と書いている。

そして、①と②がそんなふうに繋がっている構図が、実はうつ病と精神医療だけでなく、
“Ashley療法”に象徴される「科学とテクノの簡単解決バンザイ文化」や
その背景にある能力至上価値観、その延長の「能力低ければ生きるに値しない命」価値意識、
さらにその意識に基づく「無益な治療」・「死の自己決定」の議論にも、
そのまま通じていくことが、

本当はさらにコワいことなのだろうなぁ……とつくづく考えさせられた。