ハリケーン・カトリーナ:メモリアル病院での“安楽死”事件 2/5: Day 1 とDay 2

Day 1 ( 2005年8月29日 月曜日)

カトリーナが迫りくるニューオリンズでも最も標高の低い地域に建つメモリアルには、
200人以上の患者と600人の職員を含む2000人近くが避難していた。

午前4:55、電気が断たれ、病院の補助発電機が作動。
医療機器のための発電であり、空調システムは機能を停止する。
しかし夜には町を浸した水も引き、メモリアルにも被害はあったものの
病院機能を維持したまま嵐を乗り切ったかに思えた。


Day 2 (8月30日 火曜日)

カトリーナが通過したばかりの朝、通りに濁った水があふれ出てきたのを見て、
幹部は病院閉鎖を検討する。

病院機能の命綱ともいえる緊急用の送電スイッチが
かろうじてグラウンド・レベルを上まわった高さにあり、
浸水すると病院機能が停止する恐れがあった。

病院の緊急時対応マニュアルは完全な停電まで想定しておらず、
医療スタッフのチーフは当時病院に不在だったため
医療部長の Richard Deichmann が医師らを率いた。

午後12:28、病院幹部が
同じTenet社系列のニューオリンズ外の病院にメールで助けを求め、
180人以上の患者をさせる必要があると訴える。

看護師の研修室が対策本部となり、
20数名いた医師の多くと看護責任者らが Diechmann の元に集まる。

NICUの乳児、妊婦、ICUの重症者が最優先だとの意見はすぐに一致した。

それから Deichmann は、病院の災害時計画にはないことを提案した。
DNR(蘇生処置拒否)の患者の避難は最後にしてはどうかというのだ。

DNRは、患者の心臓や呼吸が停止した際に蘇生を不要とするものであり
「ターミナルで不可逆な」症状の患者が法的に認められるリビング・ウィルによって
あらかじめ生命維持措置の差し控えまたは中止を希望することとは異なる。

しかし Deichmann が Fink(この記事の著者) に語ったところでは、
最悪の場合にもDNRの患者は失うものが最も少ないのだから最後にするべきだと考えたのだという。

もっとも医師らは、この時の決定をそれほど重視していたわけではなかった。
数時間の内には救助が来て全員が無事に避難できると誰も疑っていなかったからだ。

しかし、実はこの時、協議から漏れている人たちがいた。

数年前からメモリアルの7階はLifeCare Hospital of New Orleansにリースされており、
長期的に24時間介護と集中医療を要する重症患者のフロアとなっている。
Life Careは呼吸器をつけた患者のリハビリテーションに力を入れ、
呼吸器外しや在宅復帰に取り組んできた。ホスピスではない。

高齢患者や重症障害のある患者も死なせない独自の方針を貫いている。
これについては以前から医師の間で議論があり、
「望みのない患者に資源の無駄遣いだ」との批判もあった。

82床で、独立した運営体制で独自に看護師、薬剤師を雇っているが
医師の多くはメモリアルとの兼務。

当時入院していた52人の多くは寝たきりで7人が呼吸器依存。
停電すれば命が危ういが、Deichmann が招集した会議で
7階のLifeCareの患者の避難は話題にならなかった。

午後になり、病院に隣接する駐車棟8階屋上にコースト・ガードの救援ヘリが到着。
まず病院8階のICUから患者が車椅子で2階に下ろされ(動いていたエレベーターは1基)
ストレッチャーに乗せ換えた上で、機械室の壁に開けた穴から駐車棟へ移動。
そこから駐車棟屋上の8階へと運ばれていった。

当初、7階のLifeCareのスタッフは
自分たちの患者も退避計画に含まれていると安心していたが、
テキサスのLifeCare本部と連絡を取ると、
LifeCareの患者を一緒に避難させてもらうには
メモリアルの運営母体Tenetの了解が必要とわかる。その交渉が難航した。
(Tenetの方ではLifeCareが退避の申し出を何度も断ったと証言している)

暗くなる頃には、メモリアルが最優先と決めた患者全員が避難を完了。
メモリアルの患者は187人から130人に減った。

LifeCareには依然として52人。
「Tenetと電話している。朝にはうちの患者も」と本部からのメールが残っている。