米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」ガイドライン(2009) 4/5

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4. 考えるべき倫理問題として

障害のある子どもたちについて

この個所の冒頭、
「障害のある子どもたちは差別から保護されるべきである」と書かれているものの、
その次に長々と書かれている内容はむしろその逆で、

ここで「一線を越えて」差し控えと中止を認めてしまったら
社会のスタンダードそのものが変容して、障害のある子どもたちが
ネグレクトされたり価値なきものとみなされると懸念する人や団体があるが
そういう「すべり坂」論で差し控えと中止を禁じてしまえば、
望みもしない医療で負担の大きな介入を受ける子どもたちが生じてしまう、と
障害児保護への配慮の必要を一蹴し、

障害だけでは差し控えや中止の理由にはならないのだし、
十分に利益と負担の比較考量をすれば済むことだ、と懸念を排除しています。

が、著者らが一貫してcontinued existenceの利益を体験できるだけの意識の有無を
「利益」の判断に重要な要素としてこだわっていること、

パーソン論への言及や、著者らの「最少意識状態」の定義に、既に重症障害児への差別意識が見られ、
それが「意識の有無」の判断に反映されることを考えると、

著者らのいう「利益と負担の比較考量」そのものが
障害児への差別を内包している。

それに、この、いかにもDiekemaらしい論理が
「成人の基準を子どもには当てはめていけないというのは年齢差別」と共に
小児科学会のガイドラインとして通用するなら、それは、今後、
自殺幇助や臓器提供など、多くの医療倫理の問題にも
そのまま転用される可能性があるということになるのでは?


苦痛はないこと

栄養と水分がいかないと患者は大変な苦痛を味わうという説があるが、
臨床データでは、それは事実ではない。

論文冒頭でも同じようなことが書かれていますが、
いずれも漠然と studies, clinical data が言及されているだけで
具体的なデータや出典はありません。つまりエビデンスはありません。

そもそも、こういうことをデータも示さずに、
しかしネチネチと何度も書かざるを得ない心理そのものに、
どこか著者らが感じている後ろめたさを私は感じるのですが。


親や後見人の役割

最善の意思決定者は、通常、子どもの最善の利益を考えている親である。

ただし、こうした決定が急がれることは滅多にないので、
時間をかけてすべての選択肢を考慮し、
セカンド・オピニオン、サード・オピニオンを得て決めるのが望ましい。

困難事例では病院の倫理相談を利用する手もある。

ただ、子どもに明らかな利益があるにもかかわらず
家族の負担軽減のための差し控えや中止は倫理的ではない。

栄養と水分の差し控えや中止は終わりではなく、むしろ
より広い緩和ケアの入り口と考えるべきである。


医療職の個人的信条

医療職は自分の個人的倫理観の範囲内で医療を行わなければならないが
それが社会的に受け入れられている選択肢ならば
親に選択肢として知らせる義務はある。

親の同意は必要条件であっても十分条件ではなく、
親が望んでも医療職が倫理的に問題があると考えれば、
倫理相談や倫理委の関与を求めることが望ましい。

いずれにせよ最善の意思決定はコンセンサスがある場合であることが多い。


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