米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」ガイドライン(2009) 3/5

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3.差し控えまたは中止が倫理的に適切な例


差し控えまたは中止が倫理的に適切であると判断される例として、
以下の5点を上げます。


成人の場合に植物状態の人からは差し控えまたは中止してもよいとされる理由として

a. 意識がないので生存していることの利益を体験できない

b. 「理性ある人格reasonable person」という基準によって、
植物状態になった際には医療的な栄養と水分の供給を望まないので、
代理決定をしてほしいと希望する人がマジョリティである。
パーソン論が出てきていることに注目)

これと同じ方針を小児の場合に当てはめないとすれば
それは「年齢差別」である、と著者らはさらりと書いてしまいます。

小児の場合、脳の可塑性が高いという話が
たしか日本の臓器移植法改正議論の中であると思うのですが、
そういう話はこの論文には全く出てこず、むしろ
「中には意識を回復するケースもあるが、
そうした少数のケースの大半は植物状態から回復しても
重症障害を負った状態にとどまる」と書いて終わります。

どうせ重症障害にとどまるなら
植物状態からの回復可能性を問題にする意味はない、というわけでしょう。
この姿勢にこそ、論文を通じて見られる著者らの障害者に対する差別意識が表れています。

またDiekemaらの「年齢差別」論は、
「自己決定のできない子どもは大人以上に手厚く保護されなければならない」という
姿勢を全否定するものであり、

これを彼らが小児科学会倫理委の立場で書いていることは、
今後について重大な懸念になるのでは?
 

最少意識状態

定義そのものが私は問題だと思うのですが、

外からの一定の限定的な刺激に対して繰り返し可能な形で応じる能力があり、
簡単な指示に従ったり、意味のわかる音声を発したり、
状況にふさわしい笑い方や泣き方をしたり、物に手を伸ばしたり、
という行動を見せることがある子どもたち……

こうした状態で存在している(exist in this condition)人間の主観的な体験を理解することも
長期予後を断定的に診断することも難しく、不可能なので、
診断も栄養差し控えや停止の判断も最も難しく、
代理決定は慎重に、障害に関する偏見に影響されないように……と、

大筋として書かれているのですが、

いや、しかし、その定義そのものに、
Ashley事件の時にDiekemaらが暴露した、
重症障害児・者の認知能力と表出能力のギャップに対する無知と偏見が繰り返されています。


神経損傷

このカテゴリーの子どもたちの栄養と水分は診断がつくまでは必須。
その後は、診断内容により、

意識状態と(または、ではなくand )今後の経口摂取能力獲得可能性による。

家族によっては、生きていてくれるだけでいいという場合もあるし、
意識が戻らなかったり、または(ここは、または、です)意思疎通ができない状態で
ただ単に肉体的に存在するだけでは(mere physical existence)
家族や家族の周りの人たちに大きな悲しみと苦痛にしかならない場合もある。

最初のand にこだわると、意識があるだけでは不十分で、
意識があって、さらに経口摂取が出来るようになる可能性があることが
栄養と水分の続行の条件とも受け取れます。

また、「意識が戻らない、または意思疎通ができない」も非常に問題のある表現。

意思疎通の可能性は、受け手の感度の高さに依存するところが非常に大きく、
偏見にもさらされやすく、決して客観的な指標とはなりません。

しかも、ここでは著者側に既に「意識が戻ったとしても意思の疎通ができないのでは、
それはただ単に肉体として存在しているというだけ」との予見があり、

さらに、それを家族が悲しむとしたら、その家族の意向を酌んで
停止してもいいかのようなニュアンスが含まれています。

一貫して「continued existenceの利益を体験できるだけの意識の有無」にこだわる著者らが
このカテゴリーにおいてのみ、意思疎通ができるかどうかという別基準を持ち込み、
(最小意識状態の子どもの定義では暗黙のうちにこの2つの基準が摩り替えられているのですが)

それを家族が主観的にどう捉えるかを重視しているのは
著者らのスタンダードが一貫性を欠いていることになるのでは?

また、親の宗教など個人的な信条は重視されるべきだが、
だからといって、それだけの理由で倫理的に続行しなければいけないわけでもない、とも追記している。

(ちなみDiekemaは成長抑制の対象条件の中にも「意思疎通が出来ない」という基準を含め、
それによって重症身体障害を強引に重症認知障害と呼び換えるという力技をやっています)


ターミナルで既に身体が受け付けなくなっている場合

栄養と水分が供給されることの負担が利益を上回って
むしろ本人の苦痛になる可能性があることは
このカテゴリーで最も分かりやすいのですが、

なんとも引っかかるのは
著者らが、過剰に、脱水死の快状態を強調していること。

成人の研究によって(具体情報はまったくありません)
脱水死では脳内にエンドルフィンが分泌されケトンも上がって
快状態が生じ、頭もクリアになることが確かめられている、というのですが、

エンドルフィンが出るのは、苦痛に対する適応反応では?

また、吐き気やおう吐、下痢などの不快な症状もなくなる、
栄養と水分を停止することで退院して家に帰ることができる、
何度も検査のために採血しなくてもよくなるとか、いうのですが、

このあたり、“アシュリー療法”正当化でのDiekemaらの
釣り合いが取れないほどに利益を過大に、リスクを過小に描いて見せる、
(生理痛回避にホルモン注射の痛みを繰り返すよりも、子宮摘出なら1度で済む、とか)
あの論法が髣髴とされます。


また、著者らの「緩和ケア」という用語の使い方では、
栄養と水分の供給やそのあり方の判断も含めて「緩和ケア」があるというのではなく、
一切の生命維持ケアを辞めたところから“切り替えられる”のが「緩和ケア」と
捉えられているようです。

すなわち、去年秋の緩和ケア論争でいえば、
「アグレッシブな医療か、全然医療をしないか」の選択と捉えるMitchell医師の立場を
米国小児科学会倫理委員会はとるということでしょう。


消化器の機能不全

こういう子どもたちは医学的に栄養と水分を供給すれば長年生きることができるが、
もちろん予防が重要ながら、経管栄養が長期に渡ると合併症が起きてくる。

臓器移植も今のところ致死率が高いので、
子ども本人への負担が利益よりも大きいと判断されれば
栄養と水分の中止も。

このカテゴリーの子どもたちは確かに栄養と水分の供給に生存を依存してはいますが、
この論文が一貫してこだわっている意識状態で言えば、
continue existence の利益を体験することができる子どもたちも含まれるのでは?

しかし、このカテゴリーでは著者らは意識状態について全く言及せず、
ここでも著者らのスタンダードは一貫しているとは言えません。


重症の心臓疾患を持って生まれた新生児など

数カ月しか生きられない、このような新生児では
負担の方が大きいので、包括的な緩和ケアに切り替えることが望ましい。

次のエントリーに続きます。