米小児科学会倫理委の「栄養と水分の差し控え」ガイドライン(2009)  2/5

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2.前置き部分

冒頭、おおむね以下のような趣旨説明があります。

成人の医療においては、水分と栄養の供給をその他の医療と全く同じとすること、したがってその他の医療行為と同じく、差し控えや中止が認められることが、1983年の大統領委員会、米国医師会ほか多くの専門職団体によっても、また裁判所の判例によっても確認されて、すでに現場でのコンセンサスとなっている。

93年の米国小児科学会のガイドラインも差し控えてもよい場合について言及しているにもかかわらず、子供に栄養を与えることは情緒的にも社会的にもシンボリックな行為でもあって、現場は判断に困っている。

そこで乳幼児、児童、意思決定能力を欠いた青年から水分と栄養を差し控えることができる条件について、親、後見人、臨床医へのガイドラインを示す。

医療上飲食が好ましくない場合を除いて、
経口摂取が可能な子供には経口で飲食をさせなければならない、
とのAAPの基本方針を確認し、

医療的な装置による水分と栄養の供給に生存を依存している子どもたちを
対象とするガイドラインであることを断ったうえで、
非常に気になることが書かれています。

水分と栄養の供給を基本的なケアと捉え、
食べることの喜びや親との心の繋がり、周囲の人との交流など、
社会的、文化的な意味を強調する論者もあることを認めつつ、
それは飲食の「シンボリックな意味」に過ぎないと一蹴するのです。

飲食ができない子どもは咀嚼したり味わったりする喜びを経験することはできないし、食べ物を誰かと一緒に食べて、食べることを通じて関わる楽しみを味わうことはできないし、空腹ものども渇きも自分ではわからないし、食べ物を与えられることによって身体に栄養を得ている実感を経験することもできない。

そういう子どもたちのニーズは様々で、中には水分と栄養の医療的な供給がそのニーズに合わない子供もいる。

「医学的な装置によって水分と栄養を供給することは、食事を取ることとは異なる」ので
食べる行為に伴う咀嚼や嚥下、それに伴う喜びや人との交流を連想させる
「食べ物」という用語は用いない。

「餓死」という用語も死に伴う苦痛を連想させるが、
水分と栄養を停止した場合に訪れる死はむしろ脱水の結果であり、
多くの研究から苦痛を伴うことは滅多にないとされているので、
「餓死」という用語も用いない、と説明します。

広く様々な点から検討し、親の裁量権を十分に認めた上で、
栄養と水分から受ける実質的な利益と予測される負担とを比較考量し判断することが基本とされますが、

その際に目を引くのは
著者らが子どもの意識状態を重視していること。

consciously experience any benefit from continued existence という表現で、
「ただ身体的に生きているというだけの状態が延長されることの利益を体験できるほど
子どもに意識があるかどうか」に、著者は論文全体で一貫してこだわりますが、

論文の後半部分には mere physical existence という表現も登場しており、
continued existence という表現そのものが、
あらかじめ子どもの意識状態を否定しています。

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