「いのちの選択」から「どうせ」を考える

以下の本を読んだ。


いろいろ考えさせられた中でも、特に心に強く響いた個所を以下に。

児童虐待の犠牲者は、一人たりともドナーにしてはならないでしょう。
「一人たりとも」です。

それはもちろん、虐待された子どもたちが
「二度殺される」ことなどあってはならないからですが、
しかしそれだけではありません。

私たち自身とその社会の「品位」を、
取り返しのつかない仕方で損なうことにもなるからです。

脳死状態になった子どもたちの中に、児童虐待の犠牲者がいるかもしれないことに
気付きながら、それでもその子どもたちから臓器を摘出するとしたら、
私たちに臓器売買を批判する資格はないはずです。

その意味ではまた、
脳死状態となった子どもが児童虐待の犠牲者であるかどうかを見抜くことの難しさ」を
率直に認め、小児の脳死・臓器移植をためらう医師たちのたたずまいを、
そしてその彼らによって支えられている日本の医療を、
私たちはもっと評価すべきだといえるでしょう。
(p/37)


児童虐待の犠牲者が2度殺されることがあってはならないという個々のケースの問題だけでなく、
その可能性があることを知りながら、そこに目をつぶって臓器摘出を認めることは
われわれ社会の「品位」を取り返しがつかない仕方で損なうから
人間社会全体のモラルの問題としていけない、というのは

Ashley事件に対してAmy Tanが
「医師の道徳的な義務とは自らに対して負うもの」と批判したことに通じていくような気がする。

誰も見ていなければ犬を虐待してもいいことにならないのと同じく、
どんな患者に対してもどんな状況においても道徳的にふるまうことは
医師が自分自身に対して負っている人間としての義務なのだ、

なぜならば、そこを踏み外すことは
人として道徳的にふるまう自分自身の能力を損なうことだから。

……というところがカントを引いてTanが書いていることなのだけど、

私は上記リンクのエントリーで、さらに、それは、
人類がヒューマニティを失わず、総体として道徳的な agent であり続けるべく
人類総体として、またその一員たる個人として、我々には人類自身に対して負っている義務がある、
ということなんじゃないかと敷衍してみました。

そういう意味では、ここに書かれている「私たち自身と社会の品位」とは
フランシス・フクヤマが言ったthe sum of our human unity and continuityに通じていくのでは?


“Ashley療法”を擁護し普及させようとする人たちの発言を読み聞きするたびに、
その行間から立ち上ってくるのは「どうせ」という言葉の不快な響き――。

その「どうせ」は成長抑制の議論だけじゃなく、
ネオ優生思想でも自殺幇助でも臓器移植でも議論の行間から響いてくる。

どうせ自分では何もできない、何も分からない重症児なのだから。
どうせ生まれてきたって障害児になるのだから。
どうせ誰からも望まれない子どもなのだから。
どうせこんなに重い障害を負ってしまったのだから。
どうせ間もなく死ぬ人なのだから。
どうせ、もう死んだも同然なのだから。

こうして「どうせ」が世の中にどんどん広く共有されていくことの不気味――。

そうして社会全体が弱いものの痛みに対して不感症になっていき、
社会全体が品位を失い、人間社会としての尊厳を自ら擲っていくことの不気味――。