Angela事件の判決文は、Ashley論文(06)と同じ戦略で書かれている 1

Angela事件の判決文については3月11日にこちらのエントリー2つで
問題点を主に5点、指摘しました。

その冒頭で私が『絶句……』と書いたのは、
あの判決文の異様さ、「普通でなさ」に、
“Ashley療法”論争の当初、06年の主治医論文を読んで感じた「普通でなさ」と
通じていく感触があったからです。

そこで、その後、さらに読み込んでみました。

1つ1つは、ほんの些細な言葉の挿入や、微妙な言葉の選択、
説明する事柄の順番の操作など、本当に目に見えにくい小さな工夫なのですが、
明らかにミスリードと隠ぺいの工作が行われています。

06年のAshley論文もそうだし、
07年の論争当初のDiekema医師の言い逃れもそうでしたが、
まったくもって「お見事!」と言う他ないほどの巧妙さ。

Diekema医師には生まれながらに類まれなペテン師の才があるらしいと、
私はAshley事件では感じ入ってきましたが、ここへきて、
オーストラリアの家庭裁判所の判事さんまでが
Diekema医師に肩を並べることのできるペテン師の才を発揮されるとは……。

なんとも、不可解なミステリー。

2つのエントリーに分けて書きますが、
このエントリーで主な類似の工作点を挙げ、
次のエントリーでは、「貧血」と「治療目的」をめぐる巧妙な仕掛けを
詳細に解き明かしてみます。


          ――――――

あえて事実関係が分かりにくいような書き方が工夫されている

一か所にまとめて整理するべき情報が、敢えて分散して説明されており、
特に「理由」に関わる事実関係が見えにくくされている。

(もちろん事実関係が詳細に見えれば、そこに正当な「理由」がないからです。
どのように「見えにくく、誤解を招くように」されているか、
その具体的な手口は次のエントリーで)

「どうせ普通の大人の暮らしができるような子どもじゃないんだから」が
子宮摘出を正当化する根拠の1つに使われている。

「本人の健康上の必要」と「QOLの向上」との巧妙な使い分け
「親の利益ではない」との説明と「親の利益は本人の利益と重なる」との説明の使い分け。

その「目的」が一度も明記されないまま、避妊薬の投与が
本人の健康上必要な治療だったと思わせるように誘導している
(事実は、健康上の必要などなく「生理を止める」だけの避妊薬投与。詳細は次のエントリー)

親の愛と献身が持ち込まれている。

Angelaの障害像の描写が誘導的で事実から目をそらせようとしている。

全文を通じてAngelaの障害について語られる際にはhas to という表現を多用。
「依存」が強調されると同時に、その依存に対してネガティブな価値評価が付加されている。

また、ここでも障害像の事実が分かりにくい書き方をされて、
それによって事実よりも「重く」「異常」なように書かれている。

例えば、よくよく読めば、
自分では「ちゃんと」食べられないだけで「自分で食べることは可能」とも読めるし、
ストラップでフレームに立たせてもらえれば、「立てる」もしかしたら「歩ける」ようにも読める。

「シャワーチェアさえあれば自分でシャワーを浴びることが可能」とも読めるのに、
まず「自分ではシャワーを浴びることができない」と書いたうえで、
「そのためには椅子が必要」と追加されて、
「椅子があれば可能」という事実が見えにくくされている。

一方、「協調(運動・機能)に欠けるので自分では何もできない」と書かれてもいるが
上記の誘導を排除して読むと、「何もできない」はウソだということになる。

「することが3カ月の赤ん坊のようである」という母親の説明が採用されている

支えがないと自分で立てなくて、自分で「ちゃんと」食べられなくて、
椅子に座らないと自分でシャワーができなくて、
言葉もサインも使えないけど、限られた意思疎通だけはできることを指して
「することが3カ月の赤ん坊のようだ」と母親が説明し、
それを判事が意味のある説明だと受け止めて判決文に含めている。

この専門的なアセスメントの不在と、その不在の容認・隠ぺいと、

医学的にも、したがって法的にも意味を持たないはずなのに
世間的にはアピール力のある「赤ちゃんと同じ」イメージが先行させられていることもまた
“Ashley療法”の正当化戦略と全く同じ。


次のエントリーに続きます)