「2つの認知系のせめぎあい」説から「科学とテクノロジー万歳文化の世論誘導」を考える

前のエントリーの続きになります。


もう1つ、スタノヴィッチが挙げた2つの認知系のせめぎあいの例で
「お、面白い」と思ったのは、

進化的に都合がよいように組み込まれた自律的認知系TASSでは
正方向の情報は受け入れやすく、負の方向の情報は受け入れにくい、という話。

「AはBである」という情報には目が向きやすいし飲み込みやすいのだけど、
「AはBではない」という情報には目が向きにくく、
提示されても前者ほどには、すんなり飲み込めない。

なるほど、だから、一般大衆を科学とテクノの簡単解決でイケイケに乗せていって
その方向自体への疑問を抱かせないためには
「このビタミンを飲めば、この病気が予防できる」
「この遺伝子の変異があれば、この病気の確率が高い」
「この研究が進めば、この病気は治る」など
「AはBである」とか「AをすればBになる」というタイプの情報が
次から次へと矢継ぎ早に提供されていくだけでいいわけか……と。

そのイケイケの勢いの中で
「クローン肉が安全でないというエビデンスは見当たらない」といわれれば
「クローン肉は安全ではない」という否定と
エビデンスは見当たらない」という否定には
TASSが拒否する方向に認知を働かせるものだから、
TASSに受け入れやすい「クローン肉は安全である」という情報に
頭の中で勝手に書き換えられて、

その情報を論理的・分析的・科学的に理解すると、それは実は
「クローン肉は完全には安全でないかもしれない」とか
「クローン肉には完全に安全でない可能性もある」ということでもある……
という事実は頭から消えてしまうのね、きっと……。

重症障害があって言葉で意思を表現することができない人の認知についても

「分かっていることが証明できない」ということは
依然として「分かっているかもしれないし、分かっていないかもしれない」であるに過ぎないのに、
なぜか、そこで「だから分かっていないことが証明できた」かのように飛躍し、
「この人はどうせ分かっていない」と、非常に非科学的な論理にすり替えられてしまう。

それでも、多くの人がその論理の非科学性に気づかずに
医師が「分かっていると証明できないから、この患者は分かっていない」と判断するのは
相手が医師だというだけで科学的なアセスメントなのだと思い込んでしまう。

これも「分かっていることが証明できない」が「AがBではない」タイプの情報であるために
TASSにとって受け入れにくく、したがって

「AでないことがBである」タイプの情報に置き換えられると、
そこに起きている飛躍が見過ごされやすいのかもしれない。

……など、提示される、いわば「人間の認知の隙」みたいなものの事例が
私にとって、すこぶる興味深かったのは、
Ashley事件でみんながたぶらかされてしまったカラクリを
それらがイチイチ説明してくれるようにも思えたから。

Ashley療法論争で
Diekema医師の説明は最初から一貫性がなく矛盾だらけだったのに
世界中の人たちが「どこかおかしい」と感じつつも巧妙に誘導され騙されてしまったのも
もしかしたらD医師が生まれ持っているらしいペテン師の天分というものが、
このような”認知の隙”に付け込むワザに本能的に長けているからかもしれない。

そして、この指摘は、たぶん、当ブログが前から主張している
”ない”研究は”ない”ことが見えなくなってしまう落とし穴にも
まっすぐ通じていくような気がする。

しかし、スタノヴィッチがこの本を書いたのは
自分の頭でものを考え懐疑するという態度を失うのは怖いことなのだぞ、
それでは知的テクノクラートにいいように振り回され利用されてしまうぞ、と警告するためだ。

TASSだけにコントロールされて
単純で硬直的な行動パターンがルーティーンとして定着し
疑問を感じるとか内省するといった柔軟な心の働きを失った状態のことを
誰かが「アナバチ性」と呼んだのだそうな。

餌のコオロギを毒針で麻痺させておいてから
いったん穴に入って中を確認したうえでコオロギを引っ張り込む習性のあるアナバチは、
中に入っている間にコオロギを移動させられると、
入り口まで運んでから、また中に入っていく、
また離しておくと、また入り口まで運んでから中に入っていく。
頭の中が空っぽのアナバチは何度でもそれを繰り返すんだと。

だから、分析的な心でTASSの専横に対抗しようということを
スタノヴィッチは「ロボットの反逆」というのかぁ……。

その辺りにはもっと深い思索があるようだったけど、
私にはここが限界で、白状すると、途中で面倒くさくなって読むのを諦めた。

ただ、彼が反逆しろといっているのは前のエントリーで引用した前書きからすれば、
遺伝子の利己的な思惑に対してのみではなく、たぶん、
TASSに飲み込みやすい話と論法で一般大衆をたぶらかしてアナバチ化・知的プロレタリアート化して
支配・利用・搾取・使い捨て、切捨てにしようと企む知的エリートたちに対してなのだ……
ということが妙に生々しく印象に残った。