「2つの認知系のせめぎあい」説から「障害者が異様に見えるのは自然」を考える


なぜ読もうと思ったのか、もう覚えていないのだけど、
県立図書館にリクエストしておいたのが、すっかり忘れた頃になって届いたので読んでみた。

もともと無知な文系頭なのだから理解できない部分も沢山ある一方で、
理解できるところには面白い話がゴロゴロしていた。

例によって細部については間違っているところはあると思いますが、
自分なりの捉え方と言葉で大胆かつ雑駁にまとめてみると、
この本の要旨とは

人間は遺伝子が複製を繰り返して生き延びるための乗り物に過ぎないという
ドーキンス理論をベースに、

人間の認知には2つの系があって、
1つは遺伝子が生き延びるために最適な条件を選ぼうとする進化的に適した認知の系で、
これを著者は自律的システムセットTASSなどと呼ぶ。

もう1つが自分という個体にとって最適な条件を
いわば理や知でもって分析的に選ぼうとする認知の系。

で、この2つの系がせめぎあっているために
人間は必ずしも常に合理的な行動をとることができないのだ……という例を
いくつも提示・解説し、その2つのせめぎあいを理解することによって
人間が遺伝子の利己的な利益に屈しない(著者は「ロボットの反逆」と呼ぶ)ためには
後者の系をいかに利用していくべきかを考える……という話。

全体に、この人もまた、心とか情動の問題を置き去りにしたまま
認知とか知能とか合理だけで人間の行動を説明しようとしているのには
ぜんぜんついていけなかったのだけど

2つの系のせめぎあいの例が、いろいろ、めっぽう面白かった。

その中に障害に対する認知の話(P.206-208)があって、
これには目のウロコを1枚落としてもらった。

ジャーナリストのジョン・リチャードソンが書いた
「小さな世界 - こびと症の人々、愛、悩みの真実」という本の中にある
著者とこびと症の女性との手紙での論争の話。

リチャードソンがこびと症の人々の大会に出向いた時に、
参集している彼らの姿をwrong(「変」と訳してあります)と感じたと書いたことから、

こびと症の女性アンドレアがそれを批判し、
それに対してリチャードソンが
「嘘をつきたくなかったからありのままに書いた、
病気の症状への恐れそのものは自然なものだ」と主張。
それから手紙でのやり取りが続くのですが、

「もちろん、ちがっているものを見た第一印象で、いろいろな理由から不安になるのは分かります。──自分自身との違いを怖れるとか、未知のものを怖れるとか。でも、皆それを乗り越えます。……私が知りたいのは、あなたがこの考えを変えるつもりがないのかどうかです。もし、変えるつもりがないのであれば、これ以上文通を続けることはできません」

「こうしたことは、幼い頃にハードワイア接続されています。……美の基準と、その基準から外れる例はつねに存在します。ごく単純な規範的思考です。しかし、外見をまったく見るなというのは、人間をやめろというのと同じことです」

「違いを受け入れるのは、からだを無視するのとはべつのことです。違いが変に思えない状態に到達することなのです」

リチャードソンはやがて
アンドレアが求めているのは単に「政治的に正しい」答えじゃないか、とウンザリし、

「統計の部屋なるものがあったとして、見渡したところ1万5000人が「平均的」体格で、こびと症の人がひとりだとしたら、どちらが変に見えるでしょうか。幼児番組のやさしくて正直な司会者、ミスター・ロジャース流にいうならば、どちらがなじんでいないでしょうか。繰り返しますが、私は「変だ」とはいっていません。「変に見える」といっているのです。最初は。爬虫類なみのこの脳内で。私の、爬虫類なみの脳内で」

著者はここで
リチャードソンが「ハードワイア接続されている」というのは
脳内のTASSだから仕方がないという主張だが
アンドレアは彼に対してTASSを組み替えろと求めているのではないのだ、というのです。

TASSの組み換えなど不可能だということくらいアンドレアにも分かっている、
彼女が求めているのは、TASSを認めてそれと同一視するのではなく、
分析的な心を使ってTASSを乗り越えて欲しい、ということであり、
自分の本能的反応を擁護することに熱心になるあまり、
リチャードソンはアンドレアが望んでいることを正しく理解できなくなっている、と。

私たちが進化の途上にあった時代の環境においては、アンドレアのような人たちが変に見えて、それなりの扱いを受けることだけに生物学的意味があった。しかし、私たちが自分の持てる分析的システムにTASASを制御させるとき、文化は前進する。アンドレアの友人たちと同じように私たちも「第一印象では不安になっても、それを乗り越え」て、「違いが変に見えない状態に到達する」ことができる。ただしそのためには、数世紀をかけて生み出された文化的ツールを使い、分析的心でよく考えることが必要である。



例えば
あのNorman Fostがシアトル子ども病院生命倫理カンファで
「無益な治療」論の正当化に引っ張り出した
「重症児は太古の昔から殺されてきたのだ」という理屈──。

いまだに「自然に任されたら淘汰されたはずの存在」だからと
出生・着床前遺伝子診断を正当化する理屈──。

そういう物言いを念頭において、このスタノヴィッチの解説を
以下の、この本の前書きの最初の数行と合わせて考えると見えてくるものがある。

本書を書こうと思い立ったのは、ある悪夢のような未来像にとりつかれていたからだった。それは、知的エリート層だけが現代科学の持つ意味を理解している、ユートピアならぬ「ディストピア(暗黒郷)」の姿である。悪夢の世界の知的エリート層は、自分たち以外の人間にはこうした意味を理解吸収する力がない、と暗黙のうちに、あるいははっきり言葉にして決め付けている。そのかわり一般の人々には、科学以前の昔から伝えられた物語──概念上の方向展開を強いられず、したがって不安に駆られることもないお伽噺──が与えられる。要するに、社会的、経済的プロレタリアートがいなくなったと思ったらなんのことはない、知的プロレタリアートが登場していた、という科学的唯物論が支配する未来世界のイメージである。

なるほど、むしろTASSで納得しやすい話を持ち出せば
世論は操作しやすいわけか……。

「障害児は太古から殺されてきたのだ」とは、
山森氏が「ベーシック・インカム入門」で書いていた
福祉切捨てに反対する人を黙らせるための恫喝「財源はどうする!」と同じなのですね。

それにしても、この前書きに書かれている科学的唯物論が支配するディストピアって、
トランスニューマニストらが描いてみせる未来図そのものじゃないか……。