「みんなで責任逃れをするための書類整備システム」という非効率

米国の学校での教師による虐待問題について読んでいたら
英国で去年の Baby P事件をきっかけに問題になっている児童保護行政の失態の数々を思い出した。

ずっと前に米国の IDEA (障害のある個人教育法)を
ちょろっとだけ読みかじったことがあって、

その時、IDEAって、読み方によっては、現場で障害児に関与した専門家それぞれが
それぞれに「自分がやるべきことについては、ほら、このように然るべくやりましたよ」と
証拠固めをする書類整備システム、

つまりは“みんなで責任逃れをするための書類整備システム”として
読めないこともないような気がした。

もちろん、私はIDEAをちゃんと読みこんだわけでもなければ
そういう問題の専門家でもないから無知な素人の無責任な感想に過ぎないけど、
当時、米国の中・高の教師2人にその感想を述べてみたところ、2人はほぼ同意見だった。

その時以来、これはもしかしたら、
今の日本のいろんな分野で広がっているのと同じことなのかもしれない……と考える。

自分の責任の範囲で求められる仕事はちゃんとやったぞ、と
証拠を残すための書類仕事が煩雑で、その膨大な書類作りに追われるために、
本来の仕事とじっくり向かい合う余裕がなくなる。

記録に残し、書類が整備されていなければ
何も仕事をしなかったとみなされて責任を問われるので、やるしかないのだけど、

ばたばた追われているうちに本来の仕事が何なんだったかを見失い
書類を書くことが仕事のような錯覚を起こす、

ついでに、中には
書類上さえ、きっちりしていれば、あとはどうでもいいのだと勘違いする人も出てくる……
もしかしたら現場の管理職あたりが、そういう勘違いをしがちでもあって……
そうしたら本来の仕事を熱心にやっている人ほど評価が低くなる……
結局、資質も意識も高い人ほど「バカバカしくてやってられない」気分になる……

みんなが自分の守備範囲を固めることしか頭になくなって、
助け合うなんてもちろんのこと、全体のことを眺めたり構っている余裕もない……なんて状況──。

で、その結果、置き去りにされてしまうのは
本来の仕事として、しっかり向かい合う対象であったはずの
子どもや生徒であったり患者であったり高齢者や障害者――。

Baby P事件に関する調査報告が使った
「専門家が誰か一人でも自分の責任の範囲を超えて関与していれば」という表現
考えたのも、やっぱり、このことだった。

市場原理の競争が産んだ「管理を強化して効率化を」という原理(こういうのがミーム?)を
グローバリゼーションが世界中にわっと広げていって、

それが保健医療とか教育とか福祉とか、
単なる商品ではなく人間を相手にするゆえに話がそれほど単純でない分野にまで
一律に導入、浸透させてしまったものだから、

誰もゆとりを持って本来の能力や機能を発揮することができないような
実はものすごく非効率な(ほとんど機能不全の)システムがはびこってしまった……
なんてことはないのだろうか?

それでもシステムは簡単に元には戻せないし戻したくもないと考える
「管理による効率」感覚でイケイケの世界が居心地も都合もよい人たちには

今のシステムを維持し、もっと進めていくことを前提に問題を簡単解決するためには
むしろ手っ取り早く邪魔くさいバリアになっている存在を切り落としていけばいい……
というふうに世の中が捉えられているのだとしたら──?

例えば、世界中の保健医療の施策をコスト効率によってのみ点検して成績をつけ、
成果が目に見えるコスト効率のよい施策優先に組み替えていこうと
医療における「管理の強化による効率化」をさらに強力に推し進めていく
ゲイツ財団やワシントン大学IHMEのように──?