親と障害学の対立の構図で議論から締め出されている他の存在も見えなくなっている

今回の成長抑制シンポのレジュメを読んでいると、
改めて不快感を覚えるのは、

病院とAshleyの父親が当初から
「愛情に満ちた重症児の親」 vs 「政治的プロパガンダに満ちた障害者運動」という
対立の構図を描き続け、維持することに意を用いてきたということ。

もちろん、それは病院側が障害当事者らからの批判を最も恐れ
「あれは政治的プロパガンダだ」という政治的プロパガンダ
先手先手を打って繰り出している世論操作に他ならないわけで、

例えば
2007年論争当初のインタビューでDiekema医師が
「何よりも驚いたのは障害児の親と障害者運動の間にこれほどの分断があるということだ」
「Ashleyのことを親以上に障害者運動の活動家が分かっているとでもいうのか」と発言したり

Gunther医師が自殺した際にも、あたかも
障害者運動からの批判がG医師を自殺に追い込んだといわんばかりのコメントをしたし、

去年1月のCalvin大学の講演では、講演会の場そのものが
攻撃的敵対姿勢をむき出しに親の前に立ちはだかる障害者団体」というイメージ操作に利用されました。

しかし、2007年5月のシンポでも
去年1月のCalvin大の講演後のシンポでも
今回の成長抑制シンポでも、

病院側が恐らくは動員もし、敢てそういうふうに仕組むから
会場にはAshley療法をやってほしいと望む重症児の親が目立ち
一見すると成長抑制が重症児の親の共通の願いであるかのように見えてしまうだけで、

(Ashley療法をやりたい親だから、そこまでの行動を起こすエネルギーがあるともいえるし)

決して、彼らがそう見せたがっているように
全ての重症児の親が子どもの体に手を加えたいと考えているわけではなく、
論争時には「気持ちは理解できるが子どもの尊厳を無視している」と批判する重症児の親も
少なくはありませんでした。

私は、例えば予防的臓器摘出術にしても、
「合理的だからやりたい」と望む人の割合よりも
「抵抗があるからやらない」と考える人の割合の方が
実は圧倒的に多いはずだと考えているので、
それと同程度には、
成長抑制のために我が子に大量のホルモンを投与することに抵抗がない親よりも
抵抗を感じる親の方が多いのではないかと思うのです。

私自身、重症児の親ですが、Ashleyの身に起こったことを絶対に許せないと感じているように
私のような立場を取る重症児の親も米国にだって少なくないはず。

それならば、必ずしも
親と障害学や障害者の人権運動の活動家とは対立関係にあるわけではないのだから、
むしろ病院側が描く対立の構図に乗せられてしまうことに警戒したいような気がする。


もちろん、この議論に障害学や障害当事者の視点は絶対に不可欠だと思います。

これはシンポの前に英語ブログの方でも書いたのですが、
最も強く批判してきた障害当事者を含めない限り
議論の中立性などありえないだろう、とも思う。

小山さんは当日、会場から
裁判所の判断を仰がずに倫理委で決めたのでは
本人だけの利益を代理する人による敵対的審理が行われない、と
非常に鋭い指摘をしてくださっています。

これこそ障害学や障害者運動の積み重ねの背景があってこそ出てくる貴重な指摘だと思う。

しかし病院側が作り出す「親vs障害学」という対立の構図の中に障害学の視点を置いてしまうと、
実は障害学や障害当事者以外にも排除されている視点があることが
見えなくなってしまいそうな気がするのです。

それは、まず成長抑制に対して批判的スタンスをとる重症児の親たち。
それから地域で重症児・者と直接触れ合いながら、その生活を支えている人たち。
例えばソーシャルワーカーグループホームのスタッフ、ヘルパー、
養護学校の先生たち、入所施設のスタッフ、重症児・者に関ってきたボランティアたち。

私は当初から
日々の生活において直接重症児・者と関っているこういう人たちに
Diekema医師やAshleyの父親が言うように
彼らには本当に何も分からないのかどうか、
本当に赤ん坊と同じなのかどうかを
聞いてみるべきだろう、と考えてきました。

こういう人たちの視点が入ることによって
初めてこの議論が”親の愛情”神話から脱却して
「地域で支えられて暮らす」という捉え方の中に置かれるのではないかと
今でも考えています。

医療の人たちはどうしても教育や介護の分野の人をヒエラルキーの下において
自分たちが”指導”する対象としかみないし、

(高齢者介護の実態や高齢者と家族のニーズを一番よく分かっているのはヘルパーやケアマネなのに
介護関係やケアマネの学会に医師が呼ばれて講演することはあっても
地域医療の学会にヘルパーやケアマネが呼ばれて講演することがないのは
非常に不思議なことだと私はいつも思う)

障害学も含めてアカデミックな「学」の世界の人たちの中にも
現場の人たちに対してヒエラルキーを作り、似たようなスタンスを取る人があるけれども、
当事者のすぐ傍にいて、直接身体に触れながら支えている人たちこそ、
案外に親よりも誰よりも当事者のことを分かっていることがあるものです。

小山さんが英語版のレポートのタイトルに書いておられる「障害学の限界」や
日本語版のレポートで書いておられる「理論化された障害学」は
一母親の視点からAshley事件を追いかけてきた私にとっても、
おおいにうなずける指摘です。

それだからこそ、
障害学や障害者運動の人たちが
(こういう括り方そのものも問題なのだろうなとは思うのだけど、
「学」の人ではないので、とりあえず許容しておいてください)
重症児の親との対立の構図に乗せられることなく、
むしろ様々な立場を取る重症児の親たちや、
重症児のすぐ傍にいる多様な立場の人たちとも繋がって
そこにいる同じ懸念を共有する人たちと共に声を上げていくということを
考えてもらえないだろうか、と

もはや、どうにも出来ない段階まできてしまったのかもしれないし
そんなの口で言うほど簡単なことでもないし、
口ばっかりで何もできずにいる私には
こんなことを言う資格などないのだけれども、

なんとか抵抗できないかと、もどかしさに身もだえするような思いの中で
考えてたりしてみる。

       ---------

この記事の中ほどで書いた議論の中立性という点では、
なによりも、第1例の当事者である病院に
どうして成長抑制そのものの是非を一般論として議論・検討する資格があるというのだ???
とずっと考えているのですが、

これについては、また別途書きたいと思います。