向井承子『患者追放』にあった、医療の「届かなさ」

医療の中にある、いかんともしがたい「届かなさ」について
先週、あるところにちょっと書いてから、ずっとそのことについて
というか、その「届かなさ」を超えるすべについて
考えるともなく考えていた。

そのことが、今朝のコメントを機に直前エントリーを書いた
背景にあるのだろうと思うのだけれど、

そのエントリーの原稿を午前中に書いて、
午後、数日前からちょっとずつ読み進んでいる本を手に取ったら、

そこにも、その「届かなさ」の典型のような、
痛切な体験が描かれていた。

その本は、まだほとんど読めていないけれど、
『患者追放 - 行き場を失う老人たち』
向井承子 筑摩書房 2003

著者の母親が入院中に急変した時の医師との会話。

 主治医ではない見知らぬ四○歳くらいの外科医が反論も質問も許さないような緊迫した口調で説明を始めた。

「いま、この人の体内になにか大変な異常が発生しているようです。腹膜に穴があいて糞便がもれた可能性もあります。即刻、手術をします。署名捺印していただけますか?」

……(中略)……

「九○歳の大手術ですが、その後、どうなるのですか?」

出端をくじかれたような表情が医師に見てとれた。とたんに、

「この人、歩いて帰れると思っているんですか? ぴんぴんしていたんですか? 生死は五分五分です。手術適応ですよ」

「でも、生きてても、今よりもっと悪くなるんでしょう?」

 たったいまこの時でさえ三界に家なくさすらう日々である。これ以上重くなったらだれがどう責任をとれるのか。いったい母は幸せになれるのか。疲れきってコントロールを失った私の口から反射的に言葉が飛び出す。医師は苦々しげな口調で言い切った。

「手術拒否ですか。でも、尊厳死の対象ではありませんよ。僕は安楽死は手伝いません。三分以内に判をついて下さい」
(p. 28-29)


手術後に出てきた別の、若い誠実そうな医師は
「ぼく自身は、この人への手術は正しかったとは思えないのですが」と言い、

著者の母親は結局、術後に目覚めないまま、
誰の目にも明らかな生から死への転換の表情が現われて、
家族みんなの納得を待って著者が「もういいです」といって、
生命維持装置が切られた。

過剰医療や尊厳死安楽死を云々して
患者や家族に向かって「死に方くらい決めておけ」と恫喝する前に、

患者や家族が
真に「自己決定」や「自己選択」と呼べる意思決定ができるためには、

本当はどうにかしなければならないのは、
医療の中にある、この、いかんともしがたい「届かなさ」の方なんじゃないんだろうか……、

……という思いが、頭の中を最近グルグルし続けている。