医療の「届かなさ」に挑むことに要する勇気について

今朝、こちらのエントリーのコメント欄で、
患者が医療の「届かなさ」に挑むことに要する多大な勇気とエネルギーについて
ちょっと触れたら、

25年もの時の向こうから、ある情景と
そこにあったヒリヒリするような痛みの記憶が
思いがけない鮮烈さで蘇ってきたので、

いつか書きたいと思いながら、ずっと書けずにきた
その体験のことを書いてみたい。

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ミュウは生まれるなりNICUの保育器に入って、
生後3日目には胃穿孔の手術を受け、
人工呼吸器と連日の交換輸血とで肺炎と敗血症と闘う日が長く続いた。

NICU産婦人科病棟の入り口にあり、
親の面会があると廊下側の大きな窓のブラインドが上がって
中が見える仕組みになっていた。

私たち夫婦も、ミュウがNICUに入って数日後からはブラインドを上げて
廊下側に移動してもらった保育器の中のミュウと「面会」させてもらったけれど、

出産後の私はまだ産婦人科病棟に入院中なものだから、
つい何度もNICUに足が向いた。

とはいえ、夫婦そろってもいないのに、
そう何度も「面会」を求める勇気もなくて、
昼間は受付の小さな小窓から中を覗いてみたり、
なんとなく立ち去りがたく、その辺りをホバリングしていたりするのが
産後の入院中の私の日課となった。

もう一つ、出産後に私に課された日課があった。

それは搾乳。

ミュウの状態が安定して飲めるようになる日に備えて
母乳を絞って冷凍しておくために、最初は出ないかもしれないけれど、
毎日決まった時間ごとに授乳室にいって搾乳しなさい、と
出産の翌日だったかに師長さんから指示された。

それで、指示された時間に授乳室に行くと、
今思えば私が「だいたい5分から10分前行動の人」だからだったのだけれど、
授乳室は無人だった。

隣の新生児室にいた看護師さんに声をかけると、
まだ時間には少し早かったからか、ちょっと迷惑そうな顔をしながらも出てきて
部屋の真ん中にある応接セットのソファーで搾乳の仕方を教えてくれた。

当然、すぐにうまく搾れるはずもないのだけれど、
練習しているうちに出るようになるから頑張れと言いおいて看護師さんが去った後で、
出もしない搾乳の努力をしていると、

いきなり廊下に賑やかなさんざめきが生じたと思うや、
ドアを開けて、ネグリジェ姿の若い女性たちが入ってきた。

考えてみれば、指定されたのは「授乳の時間」なのであり、
ここは「授乳室」なのだから当たり前のことなのだけれど、
私が入院していた6人部屋の他の5人はみんな婦人科の患者さんたちだったし
(私はその時まで気付かなかったのだけど、それは病院側の配慮だったのだろうと思う)
すぐそこで死にかけている我が子のことで頭がいっぱいだったので、

この病院でここ数日の間にそれほど多くの子どもが産まれていることも
子どもというのは普通はそんなふうに正常に生まれてくるものなのだということも
頭の片隅にちらりと浮かんだこともなかった。

わらわらと入ってきた新米ママたちは
みんな顔なじみの気安さで笑いさんざめきながら
新生児室から我が子を受け取っては、勝手知った授乳室で
赤ん坊の体重を量っては、増えたの減ったのとはしゃいだ声で賑やかにしゃべり、
てんでに応接セットや周辺の思い思いの場所に陣取り、
既に堂々の無造作さで胸をはだけて赤ん坊に吸いつかせる。
飲ませながら、また互いにそれぞれの子どもの様子を話題に騒々しくさんざめく。

私はあっという間に、
出産後の幸福と誇りではち切れそうなママたちに、ぐるりと取り囲まれてしまった。

本当はどうだったのか分からないけれど、
その女性たちはみんな、とても若く見えた。
彼女たちの真ん中で、一人だけほとんど空っぽの搾乳器を手に座っている自分が
ものすごい年寄りであるみたいに感じられた。

一人の時にはそんなには思わなかったのに、
急に自分だけがみすぼらしく薄汚い行為をしているように思えて、

無意識のうちにうつむき、肩をすぼめて胸を隠そうとしている自分を意識すると、
みじめさで胸がぎゅうっと締め付けられた。

「搾乳の練習」を続ける気力なんか、もうカケラも残っていないのだけれど、
中止して出ていくには、立ちあがり、このヒバリのような集団の中を横断して
新生児室へ行き、また看護師さんに声をかけなければならない。

そんな勇気もなく、ヒバリたちに取り囲まれた真ん中で、
じっとうつむいて身体を固くすくめたまま、
搾乳に熱中しているフリをして耐えた。

ママたちは授乳後にもう一度我が子の体重を測って記録すると、
子どもを新生児室に戻してから、部屋を出ていく。
一人出ていくたびに、ちょっとずつ呼吸がラクになった。

再び無人に戻っても、授乳室には薄桃色のざわめきの気配がまだ充満していて、
その中に一人で座ったまま、これを1日に何度も繰り返すのか……と呆然とした。

次の指定時間には20分ほど早く行った。

新生児室にいた看護師にはとても露骨に迷惑そうな顔をされたけれど、
ヒバリの集団が入ってくるのとちょうど入れ違いの形で部屋を出ることができた。

3度目は30分前に行った。

そして、「またか」という顔で出てきた看護師に、
「あの、ちょっと、お願いがあるんですけど」と切り出してみた。

それは、口にするには沢山の勇気が必要な言葉だった。

その勇気は、露骨に迷惑顔の看護師さんに切りだすことにも必要だったけれど、
一番たくさん必要だったのは、自分の弱さ、情けなさを自分で認めて、
それを他人の前に正直に晒すこと、その痛みを乗り越えるための勇気だったと思う。

私の子どもは生まれてきたけれど、
私の手元に来ることはできません。
NICUで死にそうになっています。
この子のために搾乳はもちろんしてやりたいけれど、
無事に子どもを産んで、我が子を胸に抱いて授乳できるお母さんたちと同じ空間で、
その作業をすることは私には今ちょっと辛いです。
だから、忙しい看護師さんに迷惑をかけるのは申し訳ないんだけれども
今度から決められた時間の30分前に来させてもらえないでしょうか。

それを口にすることは私にとって
ものすごく屈辱的で、難しく、痛いことだった。

ただ、あの状況を繰り返すことにはもう耐えられなかったから、それなら、
涙ぐんだり感情的になったりせず、それを事実として淡々と伝えることで胸を張ろうと思った。

看護師さんは、一瞬、
それまで考えたこともなかったことに初めて気が付いたという顔をしたけれど、
余計なことは言わずに「いいですよ」と認めてくれた。

それまで暗くふさいでいた気持ちがそれで解放されて、
全身からふうっと力が抜け、ラクになった。
勇気を出してよかった、と思った。

20年以上経った今、勇気を出してよかった、と
あの時のことを振り返ると、やっぱり思う。

産まれたばかりの我が子が目の前で死に瀕しているという事態を
受け止めるだけで精いっぱいだった当時の私自身の精神衛生のためにも
それはもちろん良かったのだけれど、

その後の年月の間にいろんなことを考えながら今に至った私には、

医療の中にどうしても付きまとう、ある種の冷淡とか無関心を
変えていけるものが、もしもあるとしたら、その1つは、
これ以上は耐えられない、というギリギリのところから患者が
なけなしの勇気を振り絞って発する率直な声なんじゃないか、という気がするから。

そして、そんな患者の声には、
医療の中にある、いかんともしがたい「届かなさ」を超えてどこかに「届く」、
案外に大きな力があるんじゃないか、

それなら、その勇気こそが
医療の中にある冷淡や無関心を変えていける
希望でもあるんじゃないか、と思いたいから――。

だから、今この時にも日本中のあちこちの病院の片隅で、
目の前にある医療の冷淡や無関心や「届かなさ」に今にもくじけてしまいそうになりながら、
いや、それでもこれ以上は耐えられない、と必死の思いで口を開こうとして、

患者さんや家族一人一人が必死に振り絞っている勇気に、
心からのエールを――。