ケベックの看護師の medically assisted suicide 合法化への疑念

カナダ、ケベック州議会に
medically assisted suicide 合法化法案が提出されたことについて、
(別情報で見た情報では、審議は秋になるとのこと)

地元紙Montreal Gazetteに、
外科病棟で9年間働いてきた看護師からの意見が寄せられている。

さすがに患者のすぐそばに寄りそってケアする人の視点を感じさせて、
ぐっときたので、概要を以下に。

この看護師は9年以上の外科での体験から、
「PAS合法化に向かう法案を提出するのを
議員らは急ぐべきではない」という。

ぱっと考えれば死に向かうプロセスは何段階かに分かれると思えるだろうけれど、
現実にはそう単純なものではない。

まず最初の段階として、
患者本人も家族も、もはや治ることはないのだと実感として知るが
その時にはそれまで生きてくるにあたって支えとなってきたものの一切が
何の役にも立たなくなるような絶望に襲われる。
互いに手を取り涙にくれる気持ちはその後も
残された時間を生きる本人と家族に付きまとう。

次に、主治医と緩和ケアの相談をする段階となるが、
この段階から後について、この人が書いていることがたいそう興味深い。

実際には、この相談は少しばかり皮肉なものである。

というのは、どんな専門領域の医師であれ
死や死をどのように扱ったらよいかについて
医師はほとんど知らないからだ。

そこで疑問が起こってくる。

そんな状態でPASが合法化されるなら
一体その死の幇助は誰が行うのだろう?

患者の主治医?
でも、その主治医自身が、死をどう扱ったらいいか、
誰かに教えてもらいたい状態なのだけれど?

私が対応してきた緩和ケアチームは驚くほど能力の高い人の集まりで、
患者がいかに死ぬかよりも、いかに生きるかに気を配っていた。

バイタル・サインや酸素濃度は意味がなくなり、その替わりに
患者の安楽が唯一の優先事項となる。

信じられないかもしれないけれど、
病院という場では、こういうシフトはシステムそのものへの衝撃となる。

医師は血圧やレントゲンや血液検査やCTの結果を分析して対応することが
あまりにも当たり前になっているために
患者を安楽にするためにはどうしたらいいか忘れてしまっている。

多くの医師が「脈は? 酸素は?」と聞き、
「苦しんでいないか」とは聞くことはない。

言うまでもないが、緩和ケアチームは
音楽をかけたり、身体に触れたり、会話をしたり、薬を使って、
患者が苦しまないように力が及ぶ限りの努力をする。

だから緩和ケアチームと共にケアに当たる患者の友人や家族は
そういう時に私が感じるのと同じ気持ちになった。
そう、あぁ、また息ができるようになった、という気持ちに。

そして十分な緩和が達成されると、
待つという段階がやってくる。
その間、私が考えたのは、苦しまないように、
息が詰まったりすることなく、安らかに逝けますように、だった。

そして誰もが自問する。
私は良い人間だろうか。
自分の人生で何か価値あることをなしただろうか、と。

私たちは誰も死を免れない以上、
こうした問いを問わずにいられない。
死を前にしてこのような問いと直面している時、
時間は止まり、何もかもが秩序をなくしたようにすら感じられる。

PASが合法化されたら、
死を前にしたこのような時間に一体なにが起こるのだろう?

午前3時にナースが医師を呼びだして
研修医が致死薬を注射するのだろうか。

死の幇助をいつ行うかはどのように決めるのだろう?
患者が意識を失った時? もう自分で食べられなくなった時?
それとも自分で呼吸ができなくなった時?


この後、著者は
緩和ケアチームがどんなに努力しても医療制度そのものに問題があり、
とてもじゃないけれど、どの段階で幇助するなど見極められる状況ではないと言い、

日曜日の朝6時半に自分の腕の中で患者が亡くなった時、
「医師がいなくてよかった」と考えた、という話で記事を締めくくっている。



終末期ケアの議論に
もっと医師以外の医療職も参入してほしい、
と、いつも思う。

この人が言っている「医療システムに問題がある」ということの一つには
死がもっぱら医療技術の問題として捉えられ、
看取りも医師が差配すべきものとイメージされてしまう、
医療のヒエラルキー中心とした文化風土の中に
両者とも取り込まれてしまっていることがあるんじゃないのかな。

それは、たぶん、
高橋都氏が言っていた「介入行為が医師の中に呼び起こす愉悦」とも関連するし
福士・名郷論文が言う「医療行使主義」にも
通じていくんじゃないんだろうか。

この看護師が言うように、医師がそれ以外の方法論を知らないことが
患者にとって死が望ましいものにならない問題の本質なのだとしたら、

医師による自殺幇助や安楽死によって
さらに死を医師らのコントロールに委ねるのではなく、
むしろ医師らの裁量の圏外へと死や看取りを放つこと、

あくまでも死や看取りの重要な脇役として
医療を位置付け直すことの方が大事なんでは――?

個人的には、
医療現場での本当の意味でのチーム医療(本人と家族を含めた)と、
地域の在宅支援での本当の意味での介護と医療の(本人と家族を中心とした)連携
(私自身は「十分で行き届いた介護とそれを支える医療」とイメージするのだけれど)が
実現されたなら、自殺幇助議論はずいぶん変わるんじゃないかという気がしている。

もっと大きく言えば、
安藤泰至氏がいうように

「終末期医療という営みが」
単に医学や医療の一つの専門領域の中だけで問われるのではなく、
人間の文化、社会や私たちの生き方の問題として問われ」るためには、

「医療が既存の医療の専門知の枠組みで人間の生(死)を切り取って」
そこに自足するのではなく、その限界を自覚しながら、
そのなかで医療に何ができるのかを模索していくことができるような
新しい医療の文化(原文は傍点)が必要」
ということだと思う。