Betancourt訴訟上訴審の判決文を読む:植物状態からの治療中止を認めず、判断の一般化も回避

前のエントリーでとりまとめてみた英国のBland事件と同様に、
米国でも植物状態とされた患者からの生命維持の停止が問題となったBetancourt訴訟。

拙ブログでもお馴染みのNot Dead Yet、ADAPTやThaddeus Popeなどが
「法廷の友」として意見陳述してもいる事件。

上訴裁判所の判決が出る直前に一度
以下のエントリーで概要のみは、とりまとめているのですが ↓
NJ州の「無益な治療」訴訟:Betancourt事件(2010/6/11)


昨日英国のTony Bland事件のことを書いていたら、こちらの事件がとても気になってきたので、
たまたまヒットした上訴審の判決文を読んでみました。

こちらはBetancourt氏が亡くなった後で、裁判続行を求める病院側の訴えを
裁判の争点が失われたとして却下したもの。

BETANCOURT v. TRINITAS HOSPITAL
Argued April 27, 2010 – August 13, 2010
Superior Court of New Jersey, Appellate Division


まず、事実関係を簡単に以下に。

妻と二人の息子と暮らしていたRueben Betancourt(裁判当時73歳)は
08年1月22日に被告のトリニタス病院で悪性腫瘍切除手術を受けた。
手術は成功したが、術後ICUにいる間に人工呼吸器のチューブが外れる事故によって
無酸素脳症となり、永続的植物状態となる。

いったんはリハビリ施設に転院したが、
腎臓障害を起こして同病院に戻る。

最終的に、人工呼吸器を付け、経管栄養で、週3回の人工透析を必要とし、
骨まで達する褥そうができている状態となった。

これ以上の治療の続行は無益であり、スダンダードな医療の範囲を逸脱しているとして
病院側は蘇生無用指定(DNR)とし人工透析を中止するようを求めたが、家族はこれを断固拒否。

病院側は転院先を探したが引き受けてくれる施設を見つけることができなかったため、
結局、病院側が一方的にDNRとし、人工透析を停止した。

そこで隣の家で暮らしており、毎日のように病院に通っていた娘のJacquelineが
DNR指定の実行停止を求め、自分が法定代理人となることを求めて提訴。

下級裁判所は、事態が急を要すると判断し、まずJacquelineを法定代理人に任命し、
判断が出るまでの間一時的に治療内容を以前のレベルに戻すよう病院に命じたうえで、審理を開始。

本人の意思については、
息子の一人の証言でSchiavo事件の際に、決めるのは親で医師ではないと意見を口にしたことがあった。
また今回の入院では病院医師が信頼できないと語ったことがあった。

本人の意識状態については、
ある医師は「まったくない」と証言しつつ「痛みには反応する」と言う、
すぐに死ぬという医師も、かなり生きるだろうという医師もいるなど
その他の医師らの見解も少しずつ異なっており今ひとつ一貫性がない。

家族は声をかけると反応があり、身ぶりもあり、話しかけたり音楽を聞くと血圧が下がるなど、
患者は状況を理解していると言い、医師はそれは単なる反射だと言う。

また、家族はそもそもこうなったのは病院側の過失によるものだと主張。
医療過誤で訴訟を起こすことも考えており、

病院側は多額の未払いの医療費があると言い、
医療過誤訴訟で得られるカネを当てにして家族は患者を生かしておきたいのだと主張する。

09年3月29日の下級裁判所の判決では
Betancourtが意識がなく永続的植物状態であることは認定したものの、
どのような治療が適切かの意志決定は病院ではなく
本人の価値観を分かっている代理人が行うべきだとして、
原告を代理人とし、病院には永続的に治療停止を禁じた。

病院側は上訴したが
09年5月29日にRuebenは死亡。

病院側は、この事件の重要性を説いて訴訟の続行を求めたが、
原告側は「死ぬ権利」議論とは一線を画したいと望み、
患者が死んで係争がなくなった以上、争訴性が失われた、と主張。
法廷の友も同様の立場を取った。

上訴裁判所は、
患者の状態が病院によって引き起こされていること、多額の未払い医療費があること、
患者の状態そのものに確固とした事実が認定されていないことなど、

この事件特有の事情にかんがみて、同様の事情の再現性も低いと考えられることなどから、
この訴訟が続行されも判断が公益になるとは考えられないと判断。

争訴性が失われたとして、病院側の主張を退けた。


つまり、植物状態の患者の生命維持について、
英国のBlandは医師の決定権を認め、
米国のBetancourtは患者と代理人の決定権を支持した、

Bland事件はその後の基準となり、
Betancourt事件では基準となることが回避されたことに。

興味深いのは、Betancourtで生命倫理学者のPopeが
回避すべきだとの意見陳述をしていることで、

その根拠として
事実関係の記録が少ないことと
病院側が適用したルールが「漠然としている」ということを挙げ、

判事もそれに同意だと判決文に書いている。

             ――――――

ちなみに、判決文に引用されている中で、
生命維持の中止をめぐる判決が公益に関係するとされた大きな判例としてConroyとFarrell 。

前者は重病で自己決定能力のないナーシング・ホームで暮らす人の
法廷代理人が経管栄養の停止を求めたもの。

後者は、終末期の妻の呼吸器の取り外しを夫が求めたもの。

いずれも判決が出る前に患者は亡くなったが、
公益があるとして、判決は出された。

しかし、Betancourtの原告は
これらの判例は家族側が治療停止を求め「死ぬ権利」をめぐるものであるのに対して、
Betancourtは、家族は治療続行を求めているとして、これら2例とは違うと主張した。

(この2つのケースは本人の「死ぬ権利」じゃなくて
家族が「死なせる権利」だという点、議論が「無益な治療」論に基づいている点で
Betancourtと同じ「無益な治療」訴訟のようにも思えるんだけど、

2つのケースでは本人の「死ぬ権利」を家族が代理して要求していると考えれば
そちらは「死の自己決定権」の代理決定ヴァージョンで、
Betancourtだけが「無益な治療」訴訟だともいえそうだし、

実は両者の違いは「死ぬ」方向の意志決定を求めているのと
「生きる」方向の意志決定を求めているのが決定的な違いのようにも思えるし、

そこに「患者や代理人の決定権」vs「医療サイドの決定権」の対立が含まれていない点では
前者2例はBetancourt訴訟とはやはり決定的に違うところがある、とも。なんせ、ややこしい)


この個所で判決文が以下のように書いているところが興味深い。

Indeed, the public has at least an equal, if not greater, interest in a patient’s right to live than in a patient’s right to die.

実際のところ、少なくとも患者の死ぬ権利と等しく(それ以上ではないにせよ)生きる権利にも公共の利益はある。

               ―――――

なお、この時、法廷で顔を合わせているNot Dead Yetの
分析官であるStephen Drakeと、Thaddeue Popeと間には、
つい最近たいへん興味深い論争がありました。

障害学・障害者運動と生命倫理学との溝について
実に考えさせられる論争です ↓