『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 3: 第6章は「植物状態患者の意識状態」、当ブログのテーマそのものだった!!

第5章 細谷亮太「小児における終末期医療」

成人とは異なる小児の終末期医療について
欧米の小児の緩和ケアを手本に、チーム医療によるトータルケアの実践を日本にも導入し、
根付かせていこうと努力しておられる最先端の医師が概論的に紹介する、といった趣の章。

読んでいると、
チーム医療のみならず患者の生活全般への目配り、告知についての配慮の厚さなど、
こちらの方が、成人も含め本来の医療のあり方なんでは? と思えてくる。

病気の子どもへの話の3大原則「うそをつかない、わかりやすく、あとのことも考えて」も、
「最後まで痛くなく苦しくなくするという約束だけは絶対に守るからね。
怖いことのないように頑張るから、よろしくね」
「説明」の最後に追加された細谷氏の言葉も、そうだ。

「過剰な医療より尊厳死や平穏死を」と言っている一般人の本当の願いは
実は「最後まで痛くなく苦しくなく怖くない、過不足のない医療」であって、
自分の主治医が細谷氏と同じ覚悟を示し、同じ約束をしてくれるなら、そこから先の願いはきっと
「もう医療はいらない」でも「死なせてほしい」でもないんじゃないだろうか。

私はずっとそんな気がしている。
ただ、みんな、そんな医療には出会えないと、もう絶望してしまっただけで。


第6章 西村ユミ「植物状態患者はいかに理解されうるか
――看護師の経験から生命倫理の課題を問う」

植物状態患者の専門病院で勤務する看護師たちが
患者を新たに担当する段階から直接的なかかわりを深めていく時間経過に沿って
患者の捉え方が「何も分からない人」から「分かっている人」へと変わっていく過程を、

1年間に渡って調査し、そこで何が起こっているか、それは植物状態の理解において何を意味するのかを
その結果から考察する、という内容。大まかな趣旨は、結論部分にまとめられているように以下。

……看護師による患者理解は、互いの身体の応答性から生起した経験によって成り立っていた。そのためであろう、患者を「分かっている人」として理解できるようになってきたとき、看護師たちは、患者が変わったのではなく、自分たちの方が患者を見る目を養われてきたのだと思うようになった。……(略)

……法律や生命倫理の議論における患者理解には、患者に関与しつつ、自らの理解の仕方を問うという再帰性が含まれていない。その再帰性は、患者の状態に促された行為的な経験から生み出されるものであるから、じかに患者の接しなければ生起してこないのである。…(中略)…植物状態にある患者たちと直に接する経験を持っていない者たちが、こうした患者たちの生に関わる法律や倫理の問題について議論を求められる際に、まず取り組めるのは、その時の自らの患者理解が何を手掛かりにして成り立っているかを問い直すことではないだろうか。
(p.105)

植物状態」をさらに重症障害児者にまで拡げれば、これは、
アシュリー事件と出会い、パーソン論を知って驚愕した私が、
トランスヒューマ二ストや功利主義生命倫理学者らの言葉に歯ぎしりしながら、
「『分かっていない』のはアンタらの方じゃっ」と心に叫ぶ思いで
このブログで書き続けてきた、正にその訴え、ズバリ。

このブログの「A事件・重症障害児者を語る方に」という書庫は
ひとえに、それを言うためだけに設けたものと言ってもいい。
この書庫を作った時に書いたメッセージ・エントリーで、私は以下のお願いをしている。

「自分はAshleyのような重症心身障害児を(について)知っているか」と、
まず自問してみていただけないでしょうか。

これまで、これを問うために、渾身の思いを込めて沢山のエントリーを書いてきた。例えば、


それから、これらのことを、ミュウと共に暮らす生活の中から「描く」ことによって訴えようと、
書き続けてきたエントリーたちがある。例えば、


また、直接処遇のケア職員からの証言が裁判で植物状態との診断を覆した
英国のMargoまたは女性Mの事件から、それを訴えようとしたエントリーもある ↓


高谷清氏の『重い障害を生きるということ』を読んだ時にも、
高谷清著「重い障害を生きるということ」メモ 3(2011/11/22)のエントリーで
私は以下のように書いた。

実際に自分の身体でその子(人)を直接ケアすることを通じて、あるいは一定の期間その子(人)と生活を共にすることによってしか、つまりは頭や理屈ではなく自分の身体で納得するしか知りようのないこと……というものが世の中にはある、ということなのかもしれない。重症児・者の「わかっている」というのは、そういう類いのことなのかもしれない。


これこそが西村氏の言う「身体の応答性」というものだろう。

そういう類の体験を、
「患者と直に接して身の回りのケアをしつつ、
声をかけてそのわずかな応答を確かめ続ける療養の日常、
その経験の内側に視点を置き、そこで経験されていること」という捉え方で、
研究し探ってくれる人が日本にはいるのだと、この章を読んで知ったこと、

その研究を通じて、私たち家族と同様の経験がこういう形で言語化してもらえていることに、
なんだか思いがこみ上げて、6章は読みながらボロボロ泣いてしまった。

特に、食事を持っていった時とケーキを持っていった時では笑顔が違う、という観察に続けて、
でもそれは「もしかして私たちが『わぁケーキだ、村口さんに食べさせよう』と思って、近づく」
その「私たちのワクワク心を彼女が察知」しているみたいだから、かも、と
「互いが互いの行為の反映になっている」ことへの気づきが語られる場面――。

それから、「一緒に笑う」ことなどの経験が、
同じ人間同士として「いわば共存の経験を実現させる」という考察――。

医学的知識が却って壁になっている、との指摘も興味深いと思う。
植物状態と診断されて、家族には「分かっている」「反応がある」と見えるのに、
それを訴えても「唯の反射にすぎない」と医師から相手にされなかったという声は
非常によく聞くけれども、医師はむしろ教科書的な医学的知識に縛られているために
患者さんの実際の姿を見ることができなくなっているだけなのかもしれない。

実際、そういう家族の強い声で「植物状態」の誤診が分かったり、「回復」につながったケースは
当ブログで拾ってきただけでも、かなりあって、こちらに取りまとめている ↓
Owen教授の研究で、12年以上「植物状態」だった患者に意識があることが判明(2012/11/13)

この後で出てきた回復事例はこちら ↓
デンマークで回復事例 不安からドナー登録取り下げる人も(2012/11/27)

担当としてケアすることを通じて看護師が「分かっている人」と思うようになった患者さんのことを
その病院の医師はどのように「評価」しているのか、担当看護師の「分かっている」という観察が
医師の診断にどのように生かされているのか、ちょっと興味があるなぁ……。

それにしても、西村氏によると、日本の「植物状態」の定義には
「最小意識状態(MCA)」も含まれているというから恐ろしい。

医療の世界の内外を問わず
ミュウのような人たちと日常的に接していない人の中には(時に日常接している人の中にも)
重症心身障害も最少意識状態も植物状態も区別があいまいで「どうせ何も分かっていな人たち」と
みんな一括りにするような「何も分かっていない人たち」が多いだけに。

次のエントリーはこちら ↓
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 4(2013/1/28)