『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 2

第3章 田村恵子「終末期医療の現場における意思決定
 ――患者および家族とのかかわりの中で」

内科病棟でのがんの患者さんとの関わりから
「病気って誰のものなのか」という疑問を持ち、ホスピスで働き始めた経歴を持つ
淀川キリスト教病院看護部ホスピスの主任看護課長。

終末期の、①輸液治療の差し控えと、②鎮静の開始を巡って
患者と家族の意思にズレがあったケースでの医療チームの対応が2例紹介されている。

非常に興味深く、考えさせられるのは、
「輸液をする/しない」「鎮静をする/しない」だけではなく、
揺れ動く本人と家族の思いの背景にあるものに洞察の目が向けられていること。

もはや本人には苦痛でしかない過剰な医療を強要する家族に
ただ「素人の無知・無理解」しか見ようとしない
尊厳死法制化推進論者の医師らの議論に決定的に欠けているまなざしが
ここにはある、という感じがした。

そこに「素人の無知」「医療への無理解」ではなく、
「この人を失いたくない」という家族の辛さや
「何もしてあげられないこと」への無力・自責、
「何かしてあげたい」という思いを読みとり、
その上で、家族とともにケアすることを通じて医療職が家族をケアする、という姿勢。

そうした取り組みの中からでてくる合意形成について
田村氏が「折り合う」という言葉を使っているのがとても印象的だ。

私自身、重症障害のあるミュウの幼児期に、
言語道断なほど身体が弱いミュウの健康への配慮と、
その中で少しでも豊かな生活を送らせてやりたいとの思いの間で葛藤しつつ
その両者のどこで「折り合いをつけるか」がずっと課題だった。

そこには簡単に白黒つけられる答えはないし、判断を間違うリスクが常に伴うし、
結果論で自責を背負わなければならないことの連続だった。
それでも簡単には答えが見つからないところで
なんとか折り合える地点を探して悶々とすることから逃げずに
その悶々の悩ましさを引き受けることが大事なんじゃないかと
ずっと感じてきた。

ミュウの施設で大きなバトルを闘った14年前からずっと
私が保護者として訴え続けているのも、そのことだ、と思うし、

田村氏の事例で最終的に「折り合い」がついたのは
医療チームがその悶々から逃げなかったからではないか、という気がする。

けど、医療の文化は
患者や家族の思いと正面から向き合ってこうした悶々を引き受けるよりも、
リスク(患者への、と当時に職員への)を回避し、悶々から逃れる方向に
一刀両断で単純明快な答えを出すことに向かいがちでもある、と

これもまた、私は同じくミュウの幼児期から多々体験して、思う。
(最初のミュウの主治医は、親と一緒に悶々してくれる稀有な人だったけれど)

ここのところにこそ、安藤氏の第1章の結語が意味するところがある、と思うし、
田村氏も結びのところで、以下のように書いている。

「倫理的課題を検討するために生み出された概念や原則」によって
「倫理的ジレンマを解決する医療の正当性が検討されている」議論だけでは「十分ではなく」

……むしろ医療者のまなざしが、常に、終末期を生きる患者および家族に向け続けられる必要があるだろう。
(p.57)


「終末期を生きる」患者および家族――。

ここにもNot Dead Yetの主張が
やんわりと遠慮がちに提示されている。


ちなみに、特記しておきたいこととして
燃え尽き傾向の高い医師ほど患者が苦痛を訴えた時に持続的で深い鎮静を行う傾向が強く、
終末期医療の経験が多い医師ほど、せん妄や鬱状態の患者に鎮静を行う傾向が強い、
との報告がある、とのこと。


第4章 横内正利「高齢者における終末期医療」

これは、ちょうど数日前に読んだ
「ヘブンズドアホスピタル」ブログの「眠られぬ当直(よる)のために―尊厳死・平穏死偏」
「その5」までで指摘されていた、先の尊厳死議連の法案への疑問と重なり
私的にドンピシャでタイムリーだった。

例えば、
・多くの疾患を併せ持つ高齢者の終末期をがん患者の終末期を基準に語ることの危険性
・「適切な医療」が何であるかは、実際の医療現場では単純ではないこと
その他について、

「医療費抑制の流れの中で、高齢者の終末期とは何かという基本的な問題意識を欠いたまま、
終末期医療という言葉だけが独り歩きしてしまっていることに強い危機感」を抱き、
これまでも発言を続けてきた医師が、高齢者の終末期の現場から
詳細に解説し、以下のように警告するパワフルな論考。

……もし、社会が「生きるに値しない生」を認知するようなことになれば、「死ぬ権利」はやがて「死ぬ義務」へと変質していく可能性が高い。
(p.72)


横内氏は「弱い高齢者」について、
常考えられているステレオタイプとは異なる実像を紹介する。

例えば、非高齢者や「元気な高齢者」から見ればみじめで尊厳がないと感じる状況でも、
過去と決別し老いを受容した「弱い高齢者」はそれなりに現状に満足している。

これについては当ブログの補遺にも調査データがあるはずだけど
高齢者以外でも以下のデータを拾っている ↓
ロックトインの人の7割が「幸せ」と回答(2011/2/24)
トリソミー13・18、医師が描くよりも子も親もハッピーで豊かな生活(2012/7/26)
(こちらは安藤氏の第1章で言及されている)

したがって、弱い高齢者が元気な高齢者だった時に書いたリビング・ウィルや事前指示書は
現在の自己意思を反映しているとは限らない。

さらに、弱い高齢者は
「他人に誘導されやすい」
薄弱な根拠で安易に「自己意思」を決定し表明してしまいやすい。
本人も家族も、ささいなことをきっかけに言動は揺らぐ。
意思決定は「くるくる変わる」。
その背景には入院生活の不自由や医療サイドの対応への不満が隠れていることもある。

著者は高齢者の終末期と言われているものには
「生命の末期」「老化の末期」「みなし末期」の3つが混在していると指摘し、

特に「不可逆的な摂食困難」は単なる「老化の末期」に過ぎず、「終末期」ではない、と主張。

……前述したように、高齢者が経口摂取困難に陥ることは日常茶飯事である。多くは、脱水あるいは急性疾患によるのであり、点滴など然るべき治療をすれば元に戻ることが多い。そして、点滴もせずに自然経過を見た場合には、いかにも「老衰による死への過程」のように見えてしまう。しかし本来、点滴などの治療もしないで、不可逆的な摂食困難と診断することは不可能である。まして「老衰で死が近い」と予見できることは考えにくい。
(p.66-67)


ところが一定の病態・障害像になったら
「生きるに値しない」終末期状態だという認識が広がることによって、
不可逆かどうかの吟味なしに治療の可能性を放棄することを「延命治療の放棄」とみなす
「みなし末期」が混入してくる。

「わずか500mlの補液が起死回生となることも決して少なくない」と書く著者は、
高齢者の特性に沿って医療内容を勘案しつつも治癒のための努力が続けられる「限定医療」を
「みなし末期」と区別することの必要を説き、以下のように論を閉じる。

……「自然死」の美名に隠れて、高齢者の「生きる権利」がないがしろにされることがあってはならない。
(p.73)


「みなし末期」の危険性については
認知症の人と家族の会顧問の三宅貴夫医師も
「終末期もどき」という表現で警告しておられました ↓
意思決定ができにくい患者の医療決定について、もうちょっと(2009/9/3)


その他、この問題について
介護にもできることがあるという点から考えてみたエントリーは以下 ↓
「老人は口から食べることができなくなったら死」……について(2009/11/4)
「食べられなくなったら死」が迫っていた覚悟(2009/11/5)