元旦に、今年の自分に贈りたい言葉

新年あけまして、おめでとうございます。

2013年の元旦に、
今年の自分自身に向けて贈っておきたい言葉を、
年末に読んだ『環状島=トラウマの地政学』宮地尚子)から――。


 一方で、市民の教育レベルが全体的にあがり(どんな教育かにももちろんよるが)、かつ弱者のエンパワメントがすすめば、判断を専門家に委ねるしかないとされたときにも、それを疑ってかかり、誰もが当事者研究をする基盤は維持される。自己肯定感を根こそぎにされなければ、「専門家でもない者が口出しをするな」という物言いに対し、「でも、専門家だからこそ切り捨ててしまう視点や事実がある」と言い返すことができる。……(中略)……インターネットが世界に情報の民主化をもたらすという夢はすでに現実からかけ離れたものであることが明らかになったが、それでもこれまで発話や表象へのアクセスをもたなかった弱者が、「情報操作」の対象から行為者に変わる契機は増えているに違いない
(p.208-209 ゴチックはspitzibara)


このブログに寄ってくださる方々にも――。



【1月3日追記】

コメントいただいて、本当はちゃんとエントリーにしたいんだけどなぁ……と
付箋だらけの『環状島』をめくっていたら、上記の引用箇所の直前に、
もちろん上記の引用に繋がっていくと同時に、spitzbiara的には、
いただいたコメントにも直接的に関係すると思える個所が目についたので。

 遺伝子操作や機能的脳画像検査など、科学技術が発展し、専門分化し、それらが巨大な産業や資本、経済と結びついている現代に置いて、高度な専門知識を持つ科学者の役割、ミッシェル・フーコーのいう「特定領域の知識人(特殊的知識人)」の役割はますます重要になってくるといえるだろう。しかし専門分化が極度に進んでいるからこそ、同時に、起きている物事を総合的に見通す「普遍的知識人」も貴重になってくるに違いない。
(p.207)


もう一つ、

けれども油断をしたら、いつでも<水位>は上がる。<重力>や<風>にあおられて、内側の人が<内海>に、外側の人が<外海>へ放り出され、島の上に立つ人間がいなくなれば、それは加害者の勝利である。すべてが沈黙させられ、忘却されてしまえば、「完全犯罪」となる。環状島の上に立つ被害者や支援者を分断し、孤立化させ、消耗戦に持ち込み、息の根を挙げるのを待ち構える動きも、確実に存在する。
(p.37-38)