裁判所、最少意識状態での「無益な治療」拒否を認めず:David James事件(英)

このニュース、
治療の差し控えが認められなかったという点よりも、
植物状態から最少意識状態まで「無益な治療」論の対象は拡大してきているのか、という点で戦慄……。


David Jamesさん(68)は5月に便秘で入院し、肺炎を起こして重症に。

Jamesさんはこれまでに脳卒中を起こして右半身がマヒしており、
何度か心臓マヒも起こして腎機能も障害されている。
医師らの診断は最少意識状態。

病院側は
Jamesさんが悪化した場合には「無益で負担の大きな」治療をする必要はないとの
許可を求めて保護裁判所に提訴。

「無益で負担の大きな治療」とは、
心肺蘇生、腎臓移植、慢性的な低血圧への侵襲的な治療のこと。

それに対して、判事は以下のように述べて病院の訴えを拒否した。

「James氏の状態は多くの点で悲惨ではあるが、
治療が無益だとか負担が大きすぎるとか、回復の見込みがないという主張に
私は説得力を感じない」

「確かに治療の負担は大変大きいが、
それらは生き続けられることの利益との比較考量が必要」

また、
回復とは完全な健康状態に戻ることを意味するのではなく、
Jamesさん自身が価値があると感じるQOLを取り戻すことを意味する、とも付け加えた。



具体的に挙げられている心肺蘇生、腎臓移植、慢性的な低血圧への侵襲的な治療のリスクの大きさについては
素人の私でも確かに「そんなの問題にならない」なんて思わないほど大きいと思うのだけど、

この判決で注目される点として、とりあえず以下の4つを考えた。

①医師らの論理が
「最少意識状態の患者には無益だから、負担が大きな治療はしなくてよい」というふうに
無益論によって利益と負担の比較考量の必要を否定していることを、裁判所が突いた。
(「生き続けられること」を判事が利益だと前提していることに注目)

②最少意識状態のJamesさんへの「回復の見込みがない」との無益論の適用に、
「説得力がない」と判断された。

③無益かどうかの判断基準は「完全な健康状態への回復可能性」ではなく「一定のQOLへの回復可能性」。

④また無益性の判断基準は、回復可能なQOLを治療に値すると考えるかどうかについて
患者の主観的な受け止めとされたこと。

特に④の点は、
「無益な治療」論が患者の自己決定権の否定であることを考えると、
たいへん興味深い判決なのでは――?




他にも
当ブログで拾ってきた「無益な訴訟」事件で報道の情報から
植物状態」というより「最少意識状態」または
意識はあっても意思を表出できにくい重症障害なのでは……という
印象を受けた事件も沢山ありますが、とりあえず
「最少意識状態」とされる患者さんの治療停止が問題になった最近の事件として、