美しい文章 5: 姜尚中「在日」と「あくび」を巡る奇遇



姜氏の文章についてのみ言えば、
冒頭の深い思いをこめて書かれている個所は魅力的だけれど、
定型句的な湿度の高い形容を伴って平板に書き進められていることも多く、
氏の文章そのものを特に「美しい」と感じるわけでもないので、

今回は「美しい」文章ということではなく、

こんなことって、あるのぉぉぉぉ??? とばかりに仰天した
この作品中の「奇遇」について――。


154ページから156ページにかけて、
長男が生まれる際に羊水を飲み、命が危ぶまれた状況が語られている。

「奇遇」とは、
著者がそこで私たち夫婦とまったく同じ体験をし、
私とほとんど同一と呼んでもいいような文章を書いていること。

生存の可能性は50%だと言われ、ショックを受けながら
保育器に入れられた我が子を見守っている場面で
著者は以下のように書いている。

 保育器のわたしたちの「生命」は、たくさんのチューブを付けられ、ところどころに絆創膏のようなものを張り付けられて痛々しかった。それでも時おりあどけなく大あくびをする姿にわたしは一瞬、ユーモラスな感じさえ受けることがあった。
「生きるさ、きっとコイツは生きる」。自らに言い聞かせるように何度も呟くと、わたしたちの「悲劇の主人公」は大あくびをしてそれに応えているようだった。
(p.155)



生まれるなり保育器に入れられた娘が命の危機を何度もくぐり抜けていた頃、
NICUの窓のすぐそばに保育器を移動してもらって、
夫婦で覗きこんでいた時のことを書いた部分。

「おーい」
私たちは聞こえるはずのない呼びかけをした。
「ちょっと起きんかなぁ。お父さんとお母さんが来とるんじゃんけどなぁ」
 しばらく待ったが、相変わらず眠り続ける。
「じゃぁ、お父さんとお母さんは帰るぞぉ。また、明日くるぞぉ」
 その時、眠っている海がもぞもぞと体を動かしたと思うと、いきなり大あくびをした。聞こえたはずはないのに、まるでこっちの声に応えたようなタイミングだった。私たちの目の前で歯のない口が大きく開き、海はまるで満腹して眠気を催したバアサンみたいな顔になった。あっけにとられていると、閉じた口をさも満足げにもぐもぐとさせ、それきりまた、ぐっすりと眠り込んでしまった。
「……」
 思わず目を見合わせ、一瞬の後に二人で同時に吹き出した。それは実に、世を憚らぬ大あくびだった。
 この子は生きる……。
 おなかの底から湧きあがる笑い声を口から次々こぼしながら、私たちはそう確信した。
(p. 57-58)


もしかしたら、生まれてすぐに保育器に入れられた子どもの親には、
同じような体験をした人が多いのだろうか。

大あくびって、確かに、
危機に固く緊張していたいのちが、ふわっとほぐれてきたことを告げる
「生きるよ」という、子どもからのメッセージなのかもしれない。

今でも時々、真夜中にごそごそする気配に
「すわ、けいれんか?」と隣の布団から飛び起きて、覗きこみ、警戒しつつ見守っていると、

もぞもぞした挙句に、
眠りこけたまま「ふわぁ~」と呑気なあくびを一つ。

「……むにゃぁ」と、
そのまま何事もなく深い眠りに戻っていくような時、

「ありゃま……」思わず笑ってしまう。

そして、そんな時、
いのちが一つ、そこにくつろいで生きて在る……ということが
ただそれだけで、心の底からしみじみと愛おしい。