日本尊厳死協会理事長・岩尾氏の講演内容の不思議 2

前のエントリーの続きです。

岩尾氏の講演内容を掲載した記事では、

Ⅱ. スイスのExitやDignitasなどの自殺幇助機関について
以下のように書かれている。

……スイスには看取りの家があり、外国から来た人の自殺も看取ってくれる。
 その実態を視察してきた。看取りの家はまったく普通の家である。……(中略)……このような施設を運営しているのは、それなりのしっかりした考えを持った人だろうと思う。
(No.2509, p.21)


スイスで「外国から来た人の自殺」を引き受けているのはDignitasのみなので、
岩尾氏はDignitasのことも含めて「看取りの家」と称していることになるのだけれど、
(岩尾氏が視察したのがDignitasだったのか、その他の幇助機関だったのかは不明)

これが語りのままだとすると、
さしもの日本尊厳死協会理事長も、
Dignitasを運営しているルドウィグ・ミネリのことについては
「しっかりした考えを持った人だ」とはさすがに断言しかねたのだろうか。
強気の発言が続く中で、ここだけは「だろうと思う」とちょっと弱気。

なにしろDignitasについては、
商業的な利益目的でやっている、
自殺希望者への扱いが悪い、
終末期でない人や精神障害者、まったく健康な人まで幇助している、
などの批判が多々、挙げられている。

ミネリは確かに「しっかりした考え」を持っていて、それは
死を望むならば誰でも無条件に自己決定が尊重されるべきだ、というもの。

以下のインタビューから彼の発言を抜いてみると、
Dignitasの内部をGuardianが独占取材(2009/11/19)

ターミナルな病状の人だけでなく死にたい人なら誰でも死ぬ権利があるべきであり、
自分は彼らの死にたい気持ちについて道徳的にどうこう評価することはしない。
道徳といっても、宗教によって多様なのだから道徳は論じない。
自己決定という無神論原則でやっている。


実際に、これまで以下のような事例が報道されてきた。


【著名指揮者Edward Downes夫妻事件】
英国の著名指揮者夫妻がDignitasで揃って自殺(2009/7/14)




また、Dignitasは、
自殺者の遺骨をチューリッヒ湖に投棄していたことも明らかになっている。



もう一つ、岩尾氏の発言で気になったのは、
Ⅲ.以下の積極的安楽死と消極的安楽死の定義

 安楽死には2種類ある。第3者が薬物・毒物を投与して死期を早める積極的な安楽死と、自殺ができる薬を処方する(医師による自殺幇助、服用するのは患者自身)消極的な安楽死だ。最近では臨死介助という言葉に置き換えられるが、このような方法も安楽死の一つと言われる。
(No.2509, p.19)


私の理解では
積極的安楽死は上記の通りで、
commission(すること)によって死をもたらすことだけれど、

消極的安楽死は延命治療の差し控えや中止など 
omission(しないこと)によって死をもたらすこと、と捉えてきたし、

日本での現在の議論でも、以下に見られるように、
だいたいそういう定義が一般的になっていると思う。


立命館大学大学院生存学サイト arsviの「安楽死」の定義などについては ↓
http://www.arsvi.com/d/et.htm#l1

富山大学の秋葉悦子氏の「積極的安楽死と消極的安楽死の法的評価」↓
http://pe-med.umin.ac.jp/colloquium4-1.html


つまり、積極的であれ消極的であれ、安楽死は「死なせること」であり、
「自ら死ぬ」自殺を幇助することとは違う。

ところが岩尾氏は
消極的安楽死とは自殺幇助のことであると一般的なものとは異なった定義を示し、
さらに、その自殺幇助を「臨死介助」という言葉に置き換えてみせる。

こうして岩尾氏が言う「安楽死」には
われわれが普通に考えている積極的安楽死と消極的安楽死に加えて自殺幇助までが
含まれてしまっている。

なにやら妙な言葉の操作が行われているような気味の悪さを感じるのは
私だけ???


Ⅳ.家族からの圧力を受けたり、家族への配慮で死ぬことを選択する人があっても
それで構わない、と岩尾氏は考えているらしい。

この個所には絶句してしまってコメントする言葉が出ないので、
とりあえず引用のみにしておく。

 それから、自己決定権というが、家族に迷惑がかかるから呼吸器をつけないといった意見がある。家族からの圧力ではないかというのだが、しかし、そのように決めたことこそ自己決定であり、第三者が自分の価値を押し付ける話ではない。本人がそれでいいと言ったら、それは自己決定なのである。
(No. 2510 p.30)