統合失調症の母親を持つ子供の回復過程(夏苅郁子論文)
いただきもので、
以下の論文を読みました。
以下の論文を読みました。
統合失調症の家族支援は、服薬管理、症状への対応など患者に主体を置いたものが多かったが、患者の家族の心理状態を主体に論じたものは少ない。さらに、統合失調症者を母親に持つ子共達への支援は本邦ではほとんどない。地域の家族会も、患者が子ども、親が家族の場合がほとんどである。精神疾患をわずらう人を親に持つ子供達は、実際は重大なストレスを抱えているにもかかわらずどこへも相談できない状況下にある。
著者の母親は統合失調症であった。またマンガ「わが家の母はビョーキです」の著者で漫画家の中村ユキさんの母も、統合失調症であった。共に子供時代に母親の発症を経験した。その影響は深刻で、実際に著者は慢性的な希死念慮を抱え、ユキさんは性への執着を持たない青年期を過ごした。
本論文は著者とユキさんの数十年をかけて回復した過程を記述し、過酷な状況下にある人がレジリエンス(回復力)を獲得することを論じたものである。さらには現在も「患者の家族」として生育途上にある多くの子供達や、患者の社会復帰を支援する人達への回復のための何らかの示唆ができないかを論じたものである。
また、著者と中村ユキさんが実名で発表することは、「精神病」という世間の先入観の是正になるのではないかと考える。本発表が、今後この分野での啓蒙・活動に寄与することを期待したい。
なお本論文の発表に当たっては、当事者・関係者の同意を得ていることを付記する。
著者の母親は統合失調症であった。またマンガ「わが家の母はビョーキです」の著者で漫画家の中村ユキさんの母も、統合失調症であった。共に子供時代に母親の発症を経験した。その影響は深刻で、実際に著者は慢性的な希死念慮を抱え、ユキさんは性への執着を持たない青年期を過ごした。
本論文は著者とユキさんの数十年をかけて回復した過程を記述し、過酷な状況下にある人がレジリエンス(回復力)を獲得することを論じたものである。さらには現在も「患者の家族」として生育途上にある多くの子供達や、患者の社会復帰を支援する人達への回復のための何らかの示唆ができないかを論じたものである。
また、著者と中村ユキさんが実名で発表することは、「精神病」という世間の先入観の是正になるのではないかと考える。本発表が、今後この分野での啓蒙・活動に寄与することを期待したい。
なお本論文の発表に当たっては、当事者・関係者の同意を得ていることを付記する。
印象的だったのは、
著者とユキさんの回復の過程にあった共通点で、
著者とユキさんの回復の過程にあった共通点で、
① 幼児期(母親の発症以前)の愛着体験。
② それで生活していけるだけの資質や才能があったこと。
③ 罪悪感や葛藤を抱えながらも、人生の大事な時期には母親ではなく自分自身を優先することができた。
④ 人との出会い。
② それで生活していけるだけの資質や才能があったこと。
③ 罪悪感や葛藤を抱えながらも、人生の大事な時期には母親ではなく自分自身を優先することができた。
④ 人との出会い。
私自身が娘の幼児期に陥ったうつ状態からの回復過程を振り返っても、
親との間に抱えていた問題からの回復過程を振り返っても、
(もちろん両者は切り離せないほど密接に繋がっているのだけれど)
ある程度、共通したところがあるような感じを受けるし、
親との間に抱えていた問題からの回復過程を振り返っても、
(もちろん両者は切り離せないほど密接に繋がっているのだけれど)
ある程度、共通したところがあるような感じを受けるし、
もちろん私には「生活していけるだけの資質や才能」などないのだけど、この点は
「生活そのものは成り立っており、自分なりにやりたいことがあった」と
置きかえられてもよいような気もする。
「生活そのものは成り立っており、自分なりにやりたいことがあった」と
置きかえられてもよいような気もする。
個人的には、③と④が大きいのだけど、
それぞれから、さらにいろいろなことが考えられそうでもある。
それぞれから、さらにいろいろなことが考えられそうでもある。
介護者支援にとっても大きな参考になるのでは、と思う。
私自身、ずっと前にヤング・ケアラーの権利や支援を口にした際に、
障害者の権利擁護の立場から反射的な強い反発を受けた経験があり、
障害者の権利擁護の立場から反射的な強い反発を受けた経験があり、
その時に感じたのは、
「自分たちは障害者の権利を求めてこんなに尽力してきたのに、
今ここでそれを言われると困る」というニュアンスの抵抗だった。
「自分たちは障害者の権利を求めてこんなに尽力してきたのに、
今ここでそれを言われると困る」というニュアンスの抵抗だった。
ここ最近、介護者支援についてものを言おうとして
やはり反射的に向けられてきたのも「でも介護者は加害者だったじゃないか」という抵抗だった。
やはり反射的に向けられてきたのも「でも介護者は加害者だったじゃないか」という抵抗だった。
家族の方がより加害者だったという事実を私は否定するつもりはないけれど、
家族の方がより加害者であったことが歴史的事実だからといって、
暴力を受けている家族があるという今ここにある事実が事実でなくなるわけではないし、
そちらの事実には目を向けてはならない、ということにもならないと思う。
家族の方がより加害者であったことが歴史的事実だからといって、
暴力を受けている家族があるという今ここにある事実が事実でなくなるわけではないし、
そちらの事実には目を向けてはならない、ということにもならないと思う。
現に暴力を受けているのは個々の人であり、
そこで支援を必要としているのも個々の人だ。
そこで支援を必要としているのも個々の人だ。
その個々の人に向かって「あなたは加害者側の一人だから
あなたは自分が暴力を受ける痛みを語ってはならない」ということにも
「だからあなたが支援を求めてはならない」ということにも、ならないはずだと思う。
あなたは自分が暴力を受ける痛みを語ってはならない」ということにも
「だからあなたが支援を求めてはならない」ということにも、ならないはずだと思う。
抑圧されてきた誰かの権利を主張するために、
他の誰かが権利を求める声を封じることもまた抑圧だろう、と思う。
他の誰かが権利を求める声を封じることもまた抑圧だろう、と思う。
まだうまく言えないけれど、最近ずっと考えていることの一つは、
介護者支援に限らず、支援というのは個々に対して行われるものだ、ということ。
介護者支援に限らず、支援というのは個々に対して行われるものだ、ということ。
介護者の抑圧性も介護され介護する関係に潜む支配―被支配の関係の危うさも
私は否定するつもりはないけれど、
私は否定するつもりはないけれど、
その抑圧性や支配性の責が全面的に個々の介護者に負わされてしまうことは
やはり間違いではないのか、ということ。
やはり間違いではないのか、ということ。