ソルニット「災害ユートピア」からカトリーナ“安楽死”事件関連メモ



9・11を扱った第4章とカトリーナの第5章の2つを読んだところ。

翻訳文体がちょっと辛くて他を読めるかどうか自信がないこともあって、
とりいそぎ、カトリーナ安楽死”事件の舞台となったメモリアル病院への言及個所について
自分のためのメモとして。


 デニーズ・ムーアは、母親が働いている堅牢な数階建てのメモリアル・ホスピタルに避難した。彼女たち家族はいったんは部屋を割り当てられたものの、あとからやってきた白人看護師二人に与えるために、そこを追い出された。このことにひどく気分を害した彼女は、自宅に戻った。ただ、家は文字通り、彼女の目の前で崩れ落ち、コンベンションセンターに行くしかなくなった。
(p.337)

 戦闘服を着た州兵が装甲兵員輸送車から降りて、チャリティ・ホスピタル――この何十年間、貧しい市民の大部分が出産時と死亡時に世話になった、市の中心部にある巨大な医療施設群――のある医師に、患者たちを避難させるのは「危険すぎる」と言った。市内の至る所で同じことが起きていた。たとえば、メモリアル・メディカルセンターでは、一階部分が完全に浸水し、一刻の猶予もならない状況になっていた。木曜までには避難活動の多くが失敗に終わっていたので、病院に残っていた医師や看護師や職員たちはついに自分たちでボートを手配し、患者たちをニューオリンズから避難できる場所まで運び始めた。すると、監督に当たっていた、一二口径ポンプ連射式散弾銃を持った筋骨隆々の州警察官が、「ドクター、五時以降のこの辺りの安全が保証できませんので、我々は午後五時にこの積載用スロープを閉鎖します」と言った。医師はそんなに安全上の問題があるようには見えないと抗議した。
 これに対し、州警察官は「ドクター、何が安全上の問題で、何が問題でないかは我々が決めます」と言い返した。
「ここでもう一晩過ごすことはできない。また多くの患者が亡くなります」と医師は訴えた。その日の前夜にも、一〇人の患者が、暑さや、ストレスや、医療資源の欠如のために亡くなっていた。州警察官は、もし医師たちが自分たちに従わないなら、完全にそこから引き上げると脅した。結局、彼らが撤退した結果、避難は建物の反対側から、なんとか行うことができた。この報告書を書いたリチャード・E・ディーチマン医師は、安全の概念にとらわれて人命に無関心な役人たちと、救助に駆け付けたボランティアたちを対比させている。
(p.366-367)


Deichmann ……私は「ダイクマン」かと思っていた。

ProPublicaの記事でも、最後の日に救助に来た空軍が
治安悪化のために午後5時で救助活動を打ち切ると宣言したことが
安楽死”の引き金の一つとして働いた可能性が示唆されている。

実際には
生きて病院を出る最後の患者がヘリに載せられたのは午後9時だったのだけれど。


その他、ソルニットの著書からメモしておきたいこととして、以下の2点。

9・11の際に、
ノースタワー69階で仕事をしていた下半身まひの会計士の男性は
10人の同僚によるリレーで、「想像を絶する長さの階段を下ろしてもらい、
無事、安全な場所に避難することができた」
(p.256)

PTSDほど知られていないが「心的外傷後成長」という心理学概念がある。
(p.305)


【17日追記】
いつもお世話になっているなんさんが、ツイッターに流してくださった「心的外傷後成長」情報。
http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/saigai/2011sanrikuoki_eq/posttraumaticgrowth.html