「支援2」からのツイート集 1

「支援1」についてはちょうど1年前に、
「支援」創刊号を読むというエントリーを書いていますが、

「支援2」を半分弱読んだところで、
矢も盾もたまらず、ダダ漏れツイートしたものが以下。

「支援2」の冒頭の「当事者をめぐる揺らぎ」を読んで、「え~、なんだぁぁ~」と脱力してしまった。だって、年末に上野千鶴「ケアの社会学」から考えるという2つのエントリーを書くの、私には恐怖だった。アップする時にはバクバクで手が震えたくらいの。

ニーズに優先順位がつけられていることが一番気に入らなかったんだけど、「障害学」の人たちはみんな「当事者主権」なんだと思い込んでいたから、こんなの書いていいんだろうか、誰かからまたぶっ叩かれるんじゃないだろうかって、夜も眠れぬ思いで・・・。な~んだぁぁ。

星加氏「どちらが優先といってみても始まらない。問題は、どうすれば両者を共に満たすことが可能になるのか」「支援提供の基盤を拡大し、支援のリソースを量的に充実させることによって、個々の支援者の「派生的ニーズ」と当事者の「一次的ニーズ」とが併存できる仕組みを」

↑学問ではないし、生まれたばかりの市民運動だから、まだまだ深めていくべきところだらけだけれど、これは基本的には介護者支援が訴え目指していこうとしているところだと思う。

それと介護者の立場から言うと、「当事者への支援を成り立たせるための支援」以外に、日本ケアラー連盟の調査でも多くの介護者は心身の健康に問題を抱えたまま介護しているわけで、英国の調査だとかなりの効率でうつ病になっている。そうなると、1次と2次両方のニーズが

介護者には生じていることになる。介護者がうつ病になったら「うつ病の介護者」ではなく、その人は「うつ病患者」のはずなのに、先に役割規定されてしまって介護者のうつ病は軽視されたり、現実に介護のために外出できず必要な医療を受けられないままでいたりする。

この際、支援者とか介護者とかケアラーとかの定義みたいなのはおいといて。あ~、なんだぁ、別に書いたってよかったんだぁ、同じことを考える人だっていたんだぁ、と思ったら、また余計なことまで書いちゃったよ。


いま「特集」を読んだところ。やっぱり岡部さんと石丸さんのが沁みるのは、私自身の立ち位置なんだろうな。けど、どれを読んでも、自分の中でほぐれていく ものがあって、それは昨夜「ケアの社会学」関係でつぶやいたのと同じで、「なんだ、言ってもよかったんだぁ・・・」ということ。

一番思うのは、私ってものすごいステレオタイプで「障害学」とか「障害者運動」とか「自立生活運動」に対して身構えてたんだなぁ…、ということ。その意識 が自分の中にある「施設に入れている親」の罪悪感と重なり合って、何か言いたいことがある、とそのことを考え始めると、必ず同時に自分の頭の中で

「オマエは単に自分が施設に入れていることを正当化しようとしているだけなんじゃないか?」と問い返してくる声が出てきて、そこを分明に整理しようと試みざるを得なくなり、でもそれは苦しくてならなくて、その痛みを抱えたまま誰かの言葉に触れると、何を読んでも聞いても

その言葉から「責められている」としか感じることができなくなっていたり・・・したんじゃないのかなぁ。これまでも漠然とは意識していたことなのだけど、この特集を読むと、「なんだ、ありのままで許されているんだ」感が、ふわっと。

今、こう書いたら、本気で泣けてきた。

ツイッターを始めたことで、障害学とか運動の方々との距離がいきなり縮まって、それで自責を目の前にドンと据え附けてしまって、そこをどんどん掘っていくのを止められなくなってしまった・・・みたいな気分で、すごく苦しんでいました。それなら

そのことには触れずにツイートするとか、黙っているとかすればいいのに、いつでも「まっすぐ」しかないバカだから考えることを止められなくて、またそれをダダ漏れに言葉にして、次はそのことに怯えて自責を他人からの非難に勝手に置き変えて。

でも「支援2」の特集を読んでいると、誰も責めてなんかいないし、誰にも責められる謂われはないし、今のままの自分でいるところで、そういう自責や痛みと向かいあえばいいんだと「許されている」感が。


「私らしい」とか「海のいる」を読んでくださった方には推測していただけていると思うのだけど、私には娘が幼くて病気ばっかりして自分の人生でダントツに 一番苦しかった時期に、一番助けてほしい人たちからロクに助けてもらえないまま、逆に毎日責め立てられながら暮らした体験があります。

そのことが、私が誰かの言葉に勝手に先取りして読みがちな「責められている」感や、その逆に何かから受け取る「許されている」感に、とても大きく影響してい ると思うので、それがどこまで一般化できるのかは分からないけれど、母親仲間との付き合いからは母親にある程度共通した意識のようでもあり。

それなら、なぜ私たち母親はそんなふうに感じさせられてしまうのか、をやっぱりグルグル考えていったっていいのかな、と。それを通じて、たぶん私はその先にある自分自身の問題と向かい合おうとしているんだとも思うし。


これを改めて読んでみて、
去年「支援」創刊号を読んだ時に受けた印象(去年のエントリーの最後に)は
やっぱり間違っていなかった……という気がする。