最近のツイートから (3月末から4月初め頃)

なにしろ頭に浮かんだことがダダ漏れになっているだけなので、
タイトルすら付けられない、とっちらかり方で、おまけに順不同ですが。


冬の間できなかったけど暖かくなってきたので、ウォーキングの後、公園の一角の大きなベンチで5分間ヨガ。ちょっと体をほぐした後で、眼をつぶって呼吸を ゆったりと整え、しばらく座る。これサイコー。温かい日射し、自分の周りの小さな風、遠くの大きな風、大きな鳥の鳴き声、小さな鳥のさえずり、

木々の葉のざわめき、スケボーの練習の音、ちょっと向こうでウォーキングする人のラジオの声、話声。ずうっと遠くの国道を走る車の音。かすかにどこかでクラクション。それらすべての上に吹き渡る大きな風の音と気配。何も考えず、ただ五感だけになる。ただ「在る」時間。


ミュウが幼い頃、天職だと思い決めてた仕事を手放さなければならなかったのは慙愧だった。その痛みとか傷とか恨みつらみとかをずううっと引きずっていたは ずなのに、自分がしてきたこととちゃんと向かい合って本を書こう、そのために非常勤をやめようと決めた時には自分で驚くほどサバサバしていた。

だから、「アシュリー事件」を書いた後は「余生」のような気がしている。あの慙愧からの来し方には、自分なりには「よく死なずに生き延びてきたぞ」と誉めてやりたいものがある。だからもう自分が本当にやりたいことだけ自分が読みたい本だけ自分が言いたいことだけでいい。


「らしさ」って、もともと自分の前に狙ったり頭で考えて意図するようなものじゃなくて、そんなことなんか考える余裕もないくらい必死で目の前のことにかかずらってジタバタしながら生きているうちに、その積み重ねや軌跡やの中からおのずと醸し出されてくるもの、でしかないような気がする。


栗山町の原稿を仕上げていて、改行して「シンポの」と打ったつもりが、「し」が「ち」になってモニターに現れた。新鮮な初体験だった。


専門職の人が論文や著書を量産しているのを見ると、本業に振り向けられるエネルギーのことを考えてシラける。でも、現場で論文なんか書こうとも考えずに目 の前の患者さんのことに一生懸命にエネルギーを注いでいい仕事をしている専門職を見ると、ちょっと書いて問題提起してほしい、と思う。

それはたぶん現場で、「出世するために仕事してる」みたいな人や「そういう仕事の仕方でエラくなった」らしい人にムカつきつつ、出世しようとも思わず目の 前の誰かのためにいい仕事をしている人を見ると、そういうあなたこそ出世してみんなを率い、下を育ててほしいと望むのと同じような。

ただ、実際に出世すると「そういうあなた」じゃなくなったりする人が多いんだけど。


昔OTさんの世界をちょっと取材した時に、若い頃に演劇をやっていたOTさんが、そのノウハウを生かして興味深い認知症高齢者のワークショップをやってい た。私もすごくいいと思った。ただそのワークが有名になると、若いOTさんたち信奉者が寄ってきてマネしようとする。でも、それは

先駆者の講演を聞いたりワークを見て勉強し、その人から学んだりマネをしたりしてできることじゃない。その人のワークに生きたのは、実は「演劇のノウハウ」ではなく「昔演劇をやっていた体験がその人の中に根付き、OTになったその人の中にもたらし産んだもの」なのだから。

もしもマネをしたければ、その人がOTの教科書にある知識や技術だけでなく、今まで生きてきた自分の丸ごとを動員して目の前の人にOTとして何ができるかを考える中から、その人にしかできないワークを生みだしてきた、その姿勢をマネることの方なのに、と思って見てた。


それにしても、なぜピーター・シンガーはこの度の「アシュリー療法」擁護では、「乳児は可愛いが尊厳ある存在ではない。これは大きな身体のまま赤ん坊の知的レベルに留まる高齢者でも同じことだ」と、わざわざ高齢者に言及しているのか?????


高屋清先生が、3月24日に新日本医師協会で「人間というのはどのような存在なのか:心身に障害がある人から考える」と題して講演し、最後にパーソン論とTPPと尊厳死法案の3つを「現在の日本の社会における危惧」として挙げて論じられたようだ。

私のブログもアシュリー事件からスタートして、いつしか「パーソン論とTPPと尊厳死法案は繋がっている」という話を書き続けてきたような気がする。


むか~し初めて書いたに等しい「原稿」なるものを遊び半分で某文芸誌の文学賞に応募したら、本命作品の「当て馬」に使われたみたいで、最終選考に残ってし まったことがある。選考会で梅原猛先生がものすごく押してくださったと聞いて舞い上がっていたら、その理由は「後輩だから」だった。

あの時、受賞してもいないし式に出られるわけでもないのに、授賞式の日に来なさいと言って会ってくれた担当編集者の方が、裏話をいろいろ聞かせてくださっ て「書き続けなさいよ」と。20年も前に一人の人から受けた好意が、その後ずっと、場所を与えられなくても書いていいんだと思える支えになった。