「言論の世界の一員」から、ぐるぐる

先日、某所で「もうspitzibaraさんは言論の世界の一員ですよね」という言葉に
つまずいて、つんのめって、身体のバランスを崩す時の身体感覚に、
ちょっと似た気分を味わった。

その時は、その感覚にこだわっていられるような状況ではなかったので、
とりあえず棚上げにして先に進んだのだけれど、
その後、あの時の感覚がずっと引っかかって、ぐるぐるしている。

まず、自分のことを「言論の世界の一員」なんて意識はまったくなかったので、
その時は、「え?? そう……なんですか……?」と茫然する感じが一番強かった。

他にないから「フリーライター」を名乗るしかない場合もあるけど、
どちらかというと「フリーライター」というよりも
「ブロガ―」の方が真実に近いというのが本人の実感だし、

地味で、かつ私的なブログをシコシコやっているという意識だったので、
「言論の世界」なんて、言葉自体が自分とは無縁なもの、というか、
そんな言葉は頭に浮かんだことすらなかった。

でも言われてみれば、
ブログ以外にもわずかであれ書きものがあるのも事実だし、
最近「アシュリー事件」という明確な主張のある本を出したのも事実なのだから、

「言論の世界の一員」としての自覚を欠いたまま、
私的なブログだからと不用意な言葉遣いをし続けているのは
確かにいけなかったのかもしれない……とは思った。

同時に、その特定の議論の文脈においては、
そう言われることに何か不当なものがあるようにも感じた。

たとえば、
そもそも「言論の世界」って何なんだろう、という思いと、

「もう(spitzibaraは)言論の世界の一員」の、その「もう」って、
いつから、何を持って「もう」なんだろう……? という疑問と、

それから、その方に念押ししてみたいこととして、
「私的なブログの世界」=「言論の世界」=「アカデミックな世界」と直線的にイクオールであって、
したがって逆向きにルールが転用される、というわけではないですよね、ということとか。

で、そういうことを、その後グルグルしてきて、

「言論の世界」とは何ぞや、という問題は私の手には負えないし、
それぞれの人がどのように定義し線を引くのかという問題のようにも思えるので、当面、棚上げ。

私に考えられるのは
「言論の世界の一員」と言われたことを
自分の中でどう整理するのかという問題だけなので、
とりあえず、今の段階で考えてみたことを。


いくら私的なブログとは言え、
知りもしないことや誤情報を意図的に、または無責任に流すようなことはしてないと思うし、

私的なブログだから何を書いてもいいというような
節度のない書き方をしたつもりもない代わりに、
介護保険情報」の連載ならこういう表現はしないだろう、という
お気楽な表現が、時に勢いに乗って飛び出してきたのも事実。

それが私的なブログの許容範囲や節度を超えるほどのものかどうかは、
改めて考え直してみたいと思っている。

ブログは私にとっては
情報収集と整理、それから自分がモノを考えるツールと捉えていたから、

どのエントリーで書いたことも、私にとっては
あくまでも「プロセスの1段階で考えてみること」であって、
何らかの問題について最終的な意見表明や立場表明ではない、と考えてきた。

例えば、アシュリー事件で初めて知ったシンガーが気になるから、
その発言を読み、自分なりに読み説いてみる、ということを
個人的なブログでしてきたからといって、

シンガーその人や、その思想を直接の主題にして
公な場で何かを書く資格が自分にあるとは思っていない。
それをしたいと思ったことも、もちろん、ない。

介護保険情報」の連載でサヴレスキュに触れたことはあったけれど、
彼の「臓器移植安楽死」の提言について自分が知り得た具体的な事実を報告し、
その範囲内のことしか書いていないはず。

「アシュリー事件」でも、誰についても、そういう書き方をしていると思う。
少なくとも、あの原稿では、特にそれを意識的に自分に課して書いたつもり。

だいたい私の問題意識のありかは
アシュリー事件のようなことが起きてしまう世の中のあり方であり、

さらに強欲ひとでなしネオリベ金融資本主義によって
弱いもの、途上国のような弱いところから「アシュリー」にされていこうとしている
今の世界と時代の方向性であって、

シンガーやサヴレスキュのことを知りたいわけでも
彼らの学問的な立場や思想に興味があるわけでもない。

もともと
何の専門分野の知識も大した一般教養もない私の、ライターとしての基本姿勢は、
英語圏で起こっていることが日本できちんと報道されていない
情報の不均衡を問題にしている、というものなのだから、

自分が知り得た範囲で、知り得た事実に基づいて
本来なら広く紹介されるべきだと私が感じるものを細々と書いてきたつもりだし、

だからこそ、逆に言えば、
障害児・者のことを(その命の扱いまで含めて)
「アカデミックな言論の世界」で堂々と云々して見せる人たちに
どうして、まず障害児・者のことをきちんと知ろうとする姿勢がないのか、

なぜ、特定の「言論の世界」での知識と情報だけに
それほどの不均衡が許されているのかが、私には不思議でならない。

それはエヴァ・キテイさんが、
いつかWhat Sortsブログで言っていたように

「科学について論じる学者が科学を知らないのは許さないのに、」
障害について論じる学者が意図的に障害について無知なままでいることは
どうして許されているのか」という疑問と同じ。

個人的なブログでspitzibaraごときが世界的に偉い学者さんを「タワケ」扱いすることも
確かに軽率な表現ではあって、誉められたことではないかもしれないけれど、

「言論の世界の一員」の責任を言うなら、

やっぱり私は、キテイさんが問うているように
アカデミックな言論の世界で「果たされていない責任」の方がよほどタチが悪いと思うのですけど――?