シンガーの乳児安楽死正当化インタビュー 再読
P・シンガーの障害新生児安楽死正当化の大タワケ(2010/8/23)
なかなか体勢を整えて原文を読み返す余裕がなかったので、これまで手をつけることができずにいました。
今回のイタリアの功利主義の学者さんの「出生後中絶」論文から巻き起こった
言論の自由論争と、「知的な議論に過ぎない」という声から思いがまたぞろ上記のシンガーの発言に至り、
この際でもあるので全訳してみました。
今回のイタリアの功利主義の学者さんの「出生後中絶」論文から巻き起こった
言論の自由論争と、「知的な議論に過ぎない」という声から思いがまたぞろ上記のシンガーの発言に至り、
この際でもあるので全訳してみました。
質問:病気の乳児を安楽死させることが許されるべきだと、あなたはなぜ考えるのですか?
シンガー:まず最初に、どうしてこの問題について書こうと思ったかをお話しします。私はオーストラリアの生命倫理センターのディレクターをしていて、倫理的なジレンマを抱えた医師らからよく相談されました。NICUで働いている医師らです。NICUというのは生後間もない子ども達、例えば二分脊椎などの病気や障害のある子ども達に集中治療をするユニットです。二分脊椎の子どもというのは、そういう医師らからすれば、助かってもそれがいいこととは言えない。仮に命が助かったとしても、そういう乳児は何度も手術を受けなければならないし、様々な重い障害を負うことになります。両親もそういう説明を聞くと、子どもが助かるのはいいことではないと考えることが多いわけです。
そこで、こうした乳児は基本的には治療されませんでした。その結果、ほとんどの子どもたちが生後6か月以内に死にました。1、2週で死ぬ子どももいたし、1、2カ月で死ぬ子どももいますが、それ以外でもだいたい6カ月以内に死にます。
これは、親、医師、看護師にとって、たいへん消耗的な体験でした。小さな赤ん坊が病院にいて、でも生きるための治療は行われていない。それでも彼らはそれなりに長い期間生きているわけです。
そこで医師から「我々がここでやっているのは果たして正しいことなのだろうか。こんなことが正当化できるのだろうか」と問い合わせがあり、私は同僚のヘルガ・クーゼと一緒に検討して、この病気(二分脊椎)の乳児は生きない方がよいと両親と医師とで決めるのは理にかなったことである、この病気が重い子どもたちは基本的には生きるべきではない、と決めたのです。しかし、だからといって死なせるのが正しいことだという考えが擁護できなかったのは、そうすると長く苦しい死となるために、前に言ったように、両親にとってもその他医療職にとっても感情的な消耗が大きいからです。
そこで我々が言ったのは、「難しいのは、この子を生かすかどうかの決断であり、症状について可能な限りすべての情報に基づいて親と医師とが決めること。しかし、一旦決断したなら、その子がすぐに人間的な死に方ができるようにしなければならない。この子は生きるべきではない、と決めるなら、それはあなたがたの決断だけれども、子どもがすぐに人間的に死ねる保証が必要だ、と。
それが我々の提言でした。
その後、様々な批判を受けてきました。プロ・ライフの運動と、戦闘的な障害者運動の人たちの両方からです。実は、我々が最初にこの問題で論文を書いた時には、障害者運動というのはまだちゃんと存在していなかったのですが、我々がこういう障害のある乳児にはそういう扱いをすべきだと思うと、堂々と言っているものだから、我々を悪者として標的にするようになりました。
プロ・ライフが我々のいうことをそういうふうに受け止めるというのはある程度私には理解できるのですが、私に言わせると、障害があるという理由で子どもを死なせることについては障害者運動こそ私に怒っているのと同じだけ怒るべきでしょう。多くの病院で、実際普通に行われていることなのだから。なぜ障害者運動が、実際に乳児を死なせていた医師をターゲットにするのではなく、我々をターゲットにすることにしたのか、私にはよく分かりません。子どもを死なせることと、彼らの死が速やかに人間的なものであるよう保証することに違いがいあるとは私には思えません。
シンガー:まず最初に、どうしてこの問題について書こうと思ったかをお話しします。私はオーストラリアの生命倫理センターのディレクターをしていて、倫理的なジレンマを抱えた医師らからよく相談されました。NICUで働いている医師らです。NICUというのは生後間もない子ども達、例えば二分脊椎などの病気や障害のある子ども達に集中治療をするユニットです。二分脊椎の子どもというのは、そういう医師らからすれば、助かってもそれがいいこととは言えない。仮に命が助かったとしても、そういう乳児は何度も手術を受けなければならないし、様々な重い障害を負うことになります。両親もそういう説明を聞くと、子どもが助かるのはいいことではないと考えることが多いわけです。
そこで、こうした乳児は基本的には治療されませんでした。その結果、ほとんどの子どもたちが生後6か月以内に死にました。1、2週で死ぬ子どももいたし、1、2カ月で死ぬ子どももいますが、それ以外でもだいたい6カ月以内に死にます。
これは、親、医師、看護師にとって、たいへん消耗的な体験でした。小さな赤ん坊が病院にいて、でも生きるための治療は行われていない。それでも彼らはそれなりに長い期間生きているわけです。
そこで医師から「我々がここでやっているのは果たして正しいことなのだろうか。こんなことが正当化できるのだろうか」と問い合わせがあり、私は同僚のヘルガ・クーゼと一緒に検討して、この病気(二分脊椎)の乳児は生きない方がよいと両親と医師とで決めるのは理にかなったことである、この病気が重い子どもたちは基本的には生きるべきではない、と決めたのです。しかし、だからといって死なせるのが正しいことだという考えが擁護できなかったのは、そうすると長く苦しい死となるために、前に言ったように、両親にとってもその他医療職にとっても感情的な消耗が大きいからです。
そこで我々が言ったのは、「難しいのは、この子を生かすかどうかの決断であり、症状について可能な限りすべての情報に基づいて親と医師とが決めること。しかし、一旦決断したなら、その子がすぐに人間的な死に方ができるようにしなければならない。この子は生きるべきではない、と決めるなら、それはあなたがたの決断だけれども、子どもがすぐに人間的に死ねる保証が必要だ、と。
それが我々の提言でした。
その後、様々な批判を受けてきました。プロ・ライフの運動と、戦闘的な障害者運動の人たちの両方からです。実は、我々が最初にこの問題で論文を書いた時には、障害者運動というのはまだちゃんと存在していなかったのですが、我々がこういう障害のある乳児にはそういう扱いをすべきだと思うと、堂々と言っているものだから、我々を悪者として標的にするようになりました。
プロ・ライフが我々のいうことをそういうふうに受け止めるというのはある程度私には理解できるのですが、私に言わせると、障害があるという理由で子どもを死なせることについては障害者運動こそ私に怒っているのと同じだけ怒るべきでしょう。多くの病院で、実際普通に行われていることなのだから。なぜ障害者運動が、実際に乳児を死なせていた医師をターゲットにするのではなく、我々をターゲットにすることにしたのか、私にはよく分かりません。子どもを死なせることと、彼らの死が速やかに人間的なものであるよう保証することに違いがいあるとは私には思えません。
訳してみても、2010年8月23日のエントリーで読んだ時と私の捉え方は変わりませんでした。
それに対して、シンガーは、話の前提を治療の差し控えにもっていき、
勝手に質問を再構成してしまっているように私には思えます。
勝手に質問を再構成してしまっているように私には思えます。
治療の差し控えによって倫理のジレンマを抱えた医師の問い合わせを受けたのが
安楽死を論じることになったきっかけだと述べることから回答を始め、
まず消極的安楽死について、親と医師とで子どもを死なせることを決めてもよい、と決めた、という。
安楽死を論じることになったきっかけだと述べることから回答を始め、
まず消極的安楽死について、親と医師とで子どもを死なせることを決めてもよい、と決めた、という。
ここで提示されている判断の根拠については、
二分脊椎に関するはなはだしい認識不足があるとBill Peaceが指摘しています。
二分脊椎に関するはなはだしい認識不足があるとBill Peaceが指摘しています。
それでもシンガーは、消極的安楽死の許容を前提に、
① 子どもが長く苦しむ、②ケアし、見ている医療職と親が消耗する、の2点を理由に、
それなら親と医師が決めた以上すみやかに死なせてやるのがよい、と
積極的安楽死を容認すべきだとの考えに至った、と説明しています。
① 子どもが長く苦しむ、②ケアし、見ている医療職と親が消耗する、の2点を理由に、
それなら親と医師が決めた以上すみやかに死なせてやるのがよい、と
積極的安楽死を容認すべきだとの考えに至った、と説明しています。
私が2010年8月23日のエントリーで指摘したのは、
消極的安楽死を前提にするなら、「十分な緩和ケア」という選択肢によって
シンガーが問題にしている本人の苦痛も、親と医師の消耗というジレンマも解消する以上、
本来の問いの「なぜ(積極的)安楽死をあなたは許容できると思うのか」には
消極的安楽死での苦痛を根拠にしているシンガーはまともに答えていない、ということです。
消極的安楽死を前提にするなら、「十分な緩和ケア」という選択肢によって
シンガーが問題にしている本人の苦痛も、親と医師の消耗というジレンマも解消する以上、
本来の問いの「なぜ(積極的)安楽死をあなたは許容できると思うのか」には
消極的安楽死での苦痛を根拠にしているシンガーはまともに答えていない、ということです。
また、シンガーの興味関心が、本人が苦しむことよりも、
むしろ親と医療職の苦しみの方に向けられているのでは、とも指摘しました。
そこにはまた別の倫理問題が生じているはずですが、
シンガーは混同・曖昧にしたまま論じるという誤魔化しをしているのではないでしょうか。
むしろ親と医療職の苦しみの方に向けられているのでは、とも指摘しました。
そこにはまた別の倫理問題が生じているはずですが、
シンガーは混同・曖昧にしたまま論じるという誤魔化しをしているのではないでしょうか。
もう1つ、シンガーが「実際に死なせているのは医師たちなのに、
その医師を攻撃せずに、なんで自分が攻撃されるのか分からない」と言っているのは
卑怯ではないか、と私が書いたことに対して、江口先生からの反論は以下。
その医師を攻撃せずに、なんで自分が攻撃されるのか分からない」と言っているのは
卑怯ではないか、と私が書いたことに対して、江口先生からの反論は以下。
「障害者運動家たちは、(障害をもっている新生児の(積極的)安楽死と同じように)障害を理由とした新生児を(積極的に治療せずに)死ぬにまかせることにも同じように腹を立てるべきだ」と言ってると紹介するべきだと思います。()内は私の解釈。
だからぜんぜん卑怯じゃない。むしろ「安楽死だけじゃなくて治療停止や積極的治療のさしひかえにも反対しなければならないはずだ」と言ってるわけです。これはspitzibaraさん自身の立場でもあるはずです。
"I’m not so sure why they’ve gone after us in particular rather than after the doctors who were actually doing it." が *were*になってるのも注意してください。
だからぜんぜん卑怯じゃない。むしろ「安楽死だけじゃなくて治療停止や積極的治療のさしひかえにも反対しなければならないはずだ」と言ってるわけです。これはspitzibaraさん自身の立場でもあるはずです。
"I’m not so sure why they’ve gone after us in particular rather than after the doctors who were actually doing it." が *were*になってるのも注意してください。
しかし、改めて質問とシンガーの回答を全訳してみて、この点についても私の捉え方は変わりません。
私にはシンガーが言いたいのは、あくまでも
「障害者運動がなぜ自分たちをターゲットにしたのか理解できない」であり、
江口先生が言われるように障害者運動の主張を分析的に批判しているというよりも、
自分たちをターゲットにすることの不当さをこういう形で訴えているだけのように思えます。
「障害者運動がなぜ自分たちをターゲットにしたのか理解できない」であり、
江口先生が言われるように障害者運動の主張を分析的に批判しているというよりも、
自分たちをターゲットにすることの不当さをこういう形で訴えているだけのように思えます。
仮に分析的に批判しているとしても、その批判は的外れです。
障害者運動の主張は「障害のある生を生きるに値しないとすること」そのものへの批判なので、
ここでシンガーが挙げている理由(障害があるから助かるのは良くないこと)での消極的安楽死は
当然のこととして否定されます。
障害者運動の主張は「障害のある生を生きるに値しないとすること」そのものへの批判なので、
ここでシンガーが挙げている理由(障害があるから助かるのは良くないこと)での消極的安楽死は
当然のこととして否定されます。
実際Bill Peaceは否定しているし、militantと呼ばれているNot Dead YETは名称にもみられるように、
「まだ死んでいない」のだから障害があるからという理由で死なせるな、との主張。
「障害を理由にすること」を批判しているのだから
「消極的安楽死も批判すべき」との批判は的外れ。
「まだ死んでいない」のだから障害があるからという理由で死なせるな、との主張。
「障害を理由にすること」を批判しているのだから
「消極的安楽死も批判すべき」との批判は的外れ。
ここでシンガーが言っていることの趣旨は、私には
「私たちが積極的安楽死を許容せよと言っていることに腹を立てるのだったら、
消極的安楽死はあちこちで行われているんだから、それにだって腹を立てるべきなのに、
実際に消極的安楽死で死なせている医師をターゲットにするんじゃなくて、
どうせ死なせるんだったら殺してやれと言っている私をターゲットにしたのは不当だ」と聞こえます。
「私たちが積極的安楽死を許容せよと言っていることに腹を立てるのだったら、
消極的安楽死はあちこちで行われているんだから、それにだって腹を立てるべきなのに、
実際に消極的安楽死で死なせている医師をターゲットにするんじゃなくて、
どうせ死なせるんだったら殺してやれと言っている私をターゲットにしたのは不当だ」と聞こえます。
そして、ついでのように
「死なせることと殺すことに違いがあるとは思えない」と、ここにもあるはずの
omissionとcomissionという別の倫理問題はスル―されてしまう。
「死なせることと殺すことに違いがあるとは思えない」と、ここにもあるはずの
omissionとcomissionという別の倫理問題はスル―されてしまう。
さらに、上記のエントリーを書いた時には頭に浮かばなかったけれど、
今こうして改めて読んでみて、やっぱり卑怯じゃないかと思うのは、
シンガーは2008年のゴラブチャック事件で既に「社会のコスト」を持ち出していること。
Singer、Golubchukケースに論評(2008/3/24)
今こうして改めて読んでみて、やっぱり卑怯じゃないかと思うのは、
シンガーは2008年のゴラブチャック事件で既に「社会のコスト」を持ち出していること。
Singer、Golubchukケースに論評(2008/3/24)
去年のMaraachli事件では、「こういう子どもの命に拘泥するか、
その金で途上国の子どもにワクチンを売って多数の命を救うか」とまで発言しています。
Peter Singer が Maraachli事件で「同じゼニ出すなら、途上国の多数を救え」(2011/3/22)
その金で途上国の子どもにワクチンを売って多数の命を救うか」とまで発言しています。
Peter Singer が Maraachli事件で「同じゼニ出すなら、途上国の多数を救え」(2011/3/22)
上記インタビューが2つの事件の間で行われたとすれば、
「なぜ思うのか」の答えには「コストに値しない」を彼は含めるべきでは?
「なぜ思うのか」の答えには「コストに値しない」を彼は含めるべきでは?