“出生後中絶”正当化論は「純粋に論理のエクササイズ」

以下のエントリーで紹介した論文著者らに
脅迫状が送られるほどの過激な非難がまきおこっていることから、
掲載誌のブログに著者らからの公開書簡が掲載されました。



主に言われていることは、

・アカデミックな世界では既に40年来議論されてきた問題を論じただけなので
まさか、これほど激烈な憎悪に満ちた批判を受けるとは予想していなかった。

・アカデミックな論文を書いたのだから、
アカデミックな業界からの反論は予想していたが、
まさかインターネットでアブストラクトが一人歩きをして
ここまで一般社会に広まり、宗教的背景があるサイトやプロライフのサイトに拾われて、
それらを含む一般からこれほどの批判を受けるとは思わなかった。

・しかし、私たちの論文の趣旨は「もしもXであったらYでなければならない」という
純粋に論理のエクササイズ(pure exercise of logic)であって、
実際に出生後中絶を合法化せよと説いたつもりはない。

・我々は政策立案者ではなく哲学者なので、
我々が扱うのは概念。法的施策を扱うわけではない。

・もし政策を扱いたいなら、
例えばグローニンゲン・プロトコルなどを論じたはずだが、
我々はガイドラインについては論じていないし、むしろ、
このようなプロトコルが存在するから議論する意味も
論文を書く意味もがあると指摘している。

・40年間の議論の文脈で論文を読んでもらえれば分かるし、
この論文で想定した読者対象はそうした文脈で読めるアカデミックな人だったのだが、
広くインターネットやメディアで取り上げられて、そうした背景を持たない人たちに届き、
我々は人を殺すこと自体に賛成なのだと誤解されている。

・そのため我々の論文に気分を害したり、脅かされたりした人には
本当に申し訳なく思い、謝罪する。

・しかし、我々の趣旨がメディアによって捻じ曲げられていることや
そこで我々が論じられていると書かれていることには同意できないし、なによりも
物議を醸す話題についてアカデミックな論文を書いたことで
誰かが不当な攻撃の対象となるということはあってはならないと思う。

・一方で、「アカデミックな」(ここはイタリックで強調)意味で、
議論を喚起したことに感謝してくれる人からのEメールも多数届いている。
こうした人たちは、我々が論文でなんら「どうすべきか」具体的な示唆・提言を
しているわけではないことを理解してくれている人たちである。

・気分を害された方には申し訳ないが、この論文が
アカデミックな言説とメディアのミスリーディングな報道、
またアカデミックな論文で論じられうる範囲と、実際に法的に許容されるべき範囲の
本質的な区別について、広く理解される契機となるよう願っている。



ぱっと頭に浮かぶのは、

広く生命倫理が、現場の医療実践や、先端医療が許容されていく過程にいかに影響してきたかという
さらに大きな図を念頭に考えた時に、

本当に
アカデミックな議論で言われることは
実際の医療の実践や、医療を巡る司法のあり方に全く影響を与えない
全然別のただの「論理のエクササイズ」だと言えるんだろうか。

私は中絶の是非議論については詳しくないから、これ以上何も言えないけど、

アシュリー事件や、死の自己決定権や、無益な治療論、移植医療の周辺では
アカデミックな世界の人たちの言動が世論形成に大きな影響を及ぼしていて、

しかも年を追うごとに、一定方向への誘導が非常に露骨になってきている観さえある。

「再分配ではなく収奪の場となった」と誰かが書いていたネオリベ強欲ひとでなし金融(慈善)資本主義や
その利権と、医療とその周辺が直結してしまっていることに、

むしろ医療の世界の人や生命倫理のアカデミックな世界の人が、
そろそろ自覚的になるべき時期だということなのでは?