生命倫理学者さんたちの「知的な議論だから」を巡る ツイート 2

3月4日

結局、生命倫理学って、科学とテクノの価値意識で世論を誘導し、メディカル・コントロールと人体の資源化を実現していくための洗脳装置なのかと思うこと、ありますよね。

「『いのちの思想』を掘り起こす」で、編著者の安藤泰至さんが 「生命倫理(学)は、医学や医療あるいは生命科学研究をめぐるシステムの一部として、それに付随するある種の『手続き』のようなものになり下がりつつ」ある、と指摘されていました。

例の「出生後中絶」論文の著者らには「アンタらこそ死ねよ」などのコメントや脅迫状が届いているらしい。そういう行為を肯定するつもりはないのだけれど、 生命倫理の議論が実際に医療現場で起こっている弱者切り捨てを正当化してきた以上、「ただ知的な議論をしただけ」と言って済むのか、とは思う。

「オレら頭のいい人間だけが興じることができる形而上学的な議論(つまり論理のパズル)」とか「単なる知的な議論」という意識が、目の前の人間が重症障害 のある子どもを持つ親であると知っていても、平然と「障害児は生きても自分のように大学教授にはなれない」と言える意識につながっていないか。

この発言を批判したことについて「憐みや配慮を求めちゃダメよね~」とたいそうな上から目線の批判があったので、断っておくけれど、私はこうした発言をする人の意識(?)における欠落(マイナス)を指摘したのであって、配慮(プラス)を求めたわけではありません。

昔、病院の廊下で、患者が挨拶しているのに平気で無視して歩いていく医師や、自分よりも年上の患者や家族をぞんざいに怒鳴りつける医師を見て、いつも「この人って、自分の家の近所の人にも、こういう態度を取るのかしら」と不思議だった。

「殺してもいい、と言ったのは、知的な議論に過ぎないから。だって生命倫理学者ですから、それが仕事ですから」という類のことを言っている人がこの前からあちこちで目について、なんとなく、こういうお医者さんの態度の使い分け方のことを考えた。

お医者さんのゴーマンに何度もそれを考えて以来、私にとって「道徳的にふるまう」基準の1つは「自分が住んでいる近所の人に向かってできないことは、誰に対してもしない」。それを考えたら、道徳的でない人が論じるからロバート・マーフィがいう「精神なき道徳」になる?

はい。おっしゃる通りです。私も一部のトンデモ御用生命倫理学者のいうことには、臓器移植を含めた、科学とテクノの簡単解決文化と、その背後に繋がっている巨大な利権という視点で、立派なconsistencyがあるように思います。

結局、こういうことなんじゃないか、と。⇒ 「必要を作りだすプロセスがショーバイのキモ」時代と「次世代ワクチン・カンファ」 http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/60707023.html

「出生後中絶」議論で、誰かが「シンガーは新生児殺しの正当化論で名前を売って大物哲学者となった」みたいなことを書いていた。W・Smithも前に「最 近の学者は過激なことを言えば言うほど権威ある大学に迎えられる」と書いていた。まるで爆弾発言やスキャンダルで名前を売るタレントみたいだ。

私、実はアシュリー療法論争の07年からずっと「ピーター・シンガーは自分の友人とか近所の人に重い障害のある子どもがいたとしたら、その人の子を指さ し、その人に面と向かって『この子は動物以下だから尊厳など無用』と言えるんだろうか」って、ずっと考えていたんですよね。

そうしたら私自身が、シンガーを擁護する学者さんから面と向かって似たようなことを言われて、あぁ、この人たちは実際に言えるんだ、と。それを私は「欠落」ととらえていたんですけど、今回「知的な議論をしただけ」というのに「分断」なのかも、と。

まだ、うまく言えないんですけど、人として生きている生身の自分というものをどこかに棚上げにして、それとはまったく「断絶」したところで、論理のパズルをしている。そこで勝利し、アカデミックな世界で業績を作りエラくなっていくために。

その分断を繋いでもなお「殺してもいい」と言えるのかどうか、実際のその人たちが生きている姿に、学者として観察するのではなく、共にこの世に生きる一人の人として触れてみたらどうか、と、アシュリー事件からずっと怨念のように思うことを、またも。

面と向かって言えるとか言えないというのは、当たり前のことですが、比喩。自分が個人として生きている世界と、知的な議論とを断絶させることによって論理 のパズルを学問として成り立たせるこのと危うさを問題にしたいわけで、その比喩はそれに至るプロセス。本題ではありません。

キテイに障害者コミュニティへの訪問を誘われた時にシンガーは断った。それは結局、分断を埋めることを拒んだのであり、つまりは「知的な議論をしているだけ」との言い訳を手放すまいとしているんじゃないのか、と。

エヴァ・キテイ「Singerに限らず、現実の経験的な問題から離れた哲学の世界に隔絶して知識と理論だけで障害者の問題を考えている人たちは、現実の障害に関して呆れるほど無知である」http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/47350976.html

でも「知的に議論」している対象である道徳とか倫理は、知的な議論の世界でだけ生きている人たちが前提ではないと思うので、そういうことがnankuru28さんが言われる関係性と切り離すことはできない、ということと繋がらないかな、と。