花を買うということ(「私は憎みます」を改題)

5年前にアシュリー事件と出会い、

アシュリーの写真を見た時、
最初に私が思ったのは、「あ、私はこの子を知っている。

この子の髪の匂いも、ひんやりした肌も、
布団にこもった甘ったるい体臭まで、私は知っている……」だった。

それから長い長い間、
頭からアシュリーのことが離れない、誰に会っても
口を開けばアシュリーのことしかしゃべらないような時間が続く中で、
アシュリーは私にとって我が子のような存在になった。

今日、気付いた。

アシュリーを守るべきところにいながら、それを自覚していながら、
その本分を果たさなかった人たちを
私は心から軽蔑し、憎んですらいるんだ、と。

拙著『アシュリー事件』の原稿の新しい個所を書こうとするたび、
花屋へ行ってその日一番きれいだと感じる花を買って来て、
机に飾ってから書き始める自分が、あの頃とても不思議だった。

それ以前に、そんなことをしたことはなかったのに、
なんでこんなことをしたいんだろう、と、ずっと不思議に思っていた。

あの本を書く作業を終えてから、
花なんか買わなくなったまま、なんとも思っていなかったし。

あれは、自分の中の憎しみが原稿に滲まないように、
花を買うことで自分を清める禊だったんじゃないかと、今日気付いた。

私が出会いがしらにぶつかった時、生命倫理は、
大人の世界の都合で6歳の子どもの健康な身体にメスを入れ、
自分たちがしたことを詭弁を弄してごまかそうとする人たちの学問でした。

そこに加担した人たちを、私は憎みます。